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「ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
これは、七・七・七・五の音数律で吟じる、都々逸(どどいつ)という俗謡です。
維新の三傑と称された木戸孝允が、習俗の近代化を訴えるために新聞に載せたといわれています。
文明開化を引き合いに出し、“ちょんまげ(丁髷)”から“ザンギリ(散切り)頭”への転換を促したのです。
しかし、頭髪の転換は容易に進みませんでした。
有力者には反対する者が多く、断髪を奨励しても強制できませんでした。
それでも、公家の中心人物であった岩倉具視が渡米中に断髪をしたという知らせを受け、多くの公家、そして明治天皇が断髪を決断するに至りました。
一般男性への断髪の普及は、明治20年代頃までかかりました。
また、和服から洋服への転換にも時間がかかりました。
政府高官や富裕層は、文明開化の先駆けとして積極的に洋服を着用しました。
一方で、洋服を着る必要性がない一般男性に、洋服はなかなか普及しませんでした。
それでも、詰襟の洋服が軍人の軍服、警官・郵便配達夫の制服、そして学生服として採用されたことで、街中でも洋服姿が目に付くようになります。
一般男性が洋服を着用するようになったのは、明治20(1887)年代以降です。
フロックコートが礼服として通常的に用いられ、三つ揃い(スリーピース)のスーツ(背広)が通勤着や通常着として普及しました。
明治30年代には、日清戦争に従軍した農山村の男性が、帰還後もメリヤス(機械編み布地)の既製品の下着を購入するようになり、シャツやズボン下が全国的に広まりました。
そして明治時代の後期には、洋行帰りの男性の間で、中折れ帽、ハイカラー(丈の高い襟)のシャツにスーツというスタイルが流行しました。
これが、いわゆる「ハイカラ」の語源となりました。
大正時代に入ると、好景気(大戦景気)を背景に、洋服の普及が一層進みます。
まず、コンチネンタル(英国から見た欧州大陸の)スタイルのスーツが流行し、次第に細身のアメリカンスタイルが人気を博しました。
大正末期には、スネークウッドのステッキにイートンクロップ(七三分け)の髪型、ロイド眼鏡、青いコンチネンタルスーツに中折れ帽(夏はパナマ帽)、ラッパズボンのモボ(モダンボーイ)が、同じくモダンテイストな洋装のモガ(モダンガール)と銀座を闊歩するようになりました。
ただし、1925(大正14)年の調査では、銀座通りを歩く男性の洋装率が67%だったのに対し、女性の洋装率はわずかに1%でした。
当時は、男性の方が圧倒的に洋服の普及が進んでいたことが分かります。
しかし、昭和に入り戦争が始まると華美を慎む風潮が広がり、ファッションに対する制限が加えられます。
また、物資統制の観点から衣服の合理化・簡素化が国策とされ、布地の代用品としてスフ(ステープル・ファイバー=人造絹)が奨励されました。
さらに1940(昭和15)年11月1日の「国民服令」(Ref.A03022512500)で、一般男性が全ての場所で着用可能な服として、カーキ色(茶褐色・国防色)の国民服が定められました。
こうして国はファッションに対する統制を強め、国民服の着用を奨励しました。
強制ではなく、当初の普及率は20%程度にとどまったといいます。
しかし、空襲が本格化すると、身動きの取りやすい国民服は一挙に広まりました。
この結果、ほとんどの男性が国民服を着用することになりました。
そして、終戦を迎えます。
復員・引揚が始まり、復員服(襟章を取り除いた軍服)を着た元兵士や、国民服を着た外地の居住者が帰国して、街はカーキ色の服であふれかえりました。
物資の不足もあり、こうした景況は戦後の混乱が収束するまでしばらく続いたようです。
戦後は一転して、若者を中心に、多種多彩なファッションスタイルが生まれます。
その最初が、無軌道な若者たち(アプレゲール)の間で流行した、享楽的なアメリカンスタイルでした。
七三分けのリーゼント、サングラス、カンカン帽、そしてボールドルック(ゆったりしたアメリカンスタイル)のスーツにコンビのエナメル靴。夏はアロハシャツに白いズボン、サングラスという派手な格好です。
1950年代には、石原慎太郎の小説『太陽の季節』に影響を受けた太陽族や、スターのファッションを真似たロカビリー族が登場。
1960年代には、アイビールックで銀座みゆき通りを歩いたみゆき族や、けたたましい轟音とともに自動車で原宿に集まった原宿族などが登場するなど、若者文化が花開きました。
一方、大人たちの服装として、スーツが一般化しました。
誰もがグレーのスーツを着たそのさまは、ドブネズミルックとも揶揄されました。
しかしその後、スーツスタイルは徐々に洗練されていきます。
1960年代には、クルーカット(短髪角刈り)にナロータイ、タイトなスーツというアイビールックが流行。
1970年代には、男性服にも豊かな色彩を取り入れ始め(ピーコック革命)、襟幅の広いスーツに太いネクタイを合わせるスタイルが流行しました。
紳士服専門店という新業態が誕生したのも、この頃のことです。
また、礼装の簡略化が進み、従来はモーニングコート等を着用した場面でも、黒や紺など濃色のスーツで許されるようになりました。
つまり、スーツは全ての場所で着用可能な、いわば大衆服になったといえます。
このように、近代化・西洋化の進展とともに、男性ファッションの洋装化が進みました。
その契機は、図らずも、戦時中の国民服の普及だったのかもしれません。
全ての場所で着用可能という国民服の機能が、そのままスーツへと受け継がれていったからです。