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解説 | 師団は、日本陸軍の常備兵団における最大の編制単位。1871年(明治4)年に導入された鎮台制は、主として平時における国内の治安維持を目的としていたが、師団制は戦時における外征を主たる任務とした。1888(明治21)年5月の師団司令部条例の制定により鎮台制が廃止されたことに伴い、広島鎮台は第5師団に改編された。初代師団長は野津道貫。第5師団は、歩兵第9旅団(広島)と歩兵第10旅団(松山)で構成され、隷下に歩兵第11連隊(広島)、歩兵第21連隊(広島)、歩兵第12連隊(丸亀)、歩兵第22連隊(松山)等が置かれた。1894年朝鮮で東学党の乱が発生した際、清国が朝鮮に派兵したことを受けて、同年6月に第5師団に動員令が下された。第5師団の歩兵第11連隊を含む混成第9旅団(大島義昌旅団長)は同月、宇品(現在の広島市)を出港して朝鮮に向かい、7月に日清戦争における最初の陸戦である成歓の戦いに参加した。他方で第5師団の主力は8月に出航し、第1軍の隷下に編入され、9月の平壌攻略戦や10月の鴨緑江渡河作戦、1895年3月の牛荘の戦いに参加した。1900年の北清事変(義和団事件)では、日本は義和団の鎮圧のために清国に派兵したが、その中心を第5師団が占めた。同年6月、日本は第5師団と第11師団の混成支隊による臨時派遣隊を編成した。8月に臨時派遣隊は北京に進軍し、同地での戦闘に参加した。1904年2月の日露戦争では、第2軍の戦闘序列に加えられた。同年6月、新たに第4軍が編成されると、第5師団はその隷下に入り、8月の遼陽会戦、10月の沙河会戦、1905年3月の奉天会戦に参加した。1911年4月には、第11師団と交代して南満洲に駐箚した。1914年(大正3)年の第1次世界大戦の際には、第5師団は8月に山東半島の青島に派遣された。1918年8月の米騒動の際には、騒動の鎮圧のために出動した。シベリア出兵では、1919年8月に第5師団の主力部隊がサバイカル州の守備等にあたった。1923年の関東大震災の際には、第5師団から工兵第5大隊等が東京に派遣された。 |
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上位の階層 | 陸軍(明治・大正期) > 師団 > 第5師団 |
レファレンス コード |
「清国派遣隊編成要領書第5師団長へ送達の件」Ref:C02030420000 |