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解説 | 師団は、日本陸軍の常備兵団における最大の編制単位。1871年(明治4)年に導入された鎮台制は、主として平時における国内の治安維持を目的としていたが、師団制は戦時における外征を主たる任務とした。1888(明治21)年5月の師団司令部条例の制定により鎮台制が廃止されたことに伴い、名古屋鎮台は第3師団に改編された。初代師団長は黒川通軌。第3師団は、歩兵第5旅団(名古屋)と歩兵第6旅団(金沢)で構成され、隷下に歩兵第6連隊(名古屋)、歩兵第18連隊(豊橋)、歩兵第7連隊(金沢)、歩兵第19連隊(名古屋)等が置かれた。1894年の日清戦争では、第3師団は第1軍の隷下に入り、9月の平壌攻略戦や10月の鴨緑江渡河作戦、12月の海城の戦い、1905年3月の牛荘の戦いに参加した。日清戦争後の1896年には、第9師団新設に伴って歩兵第6旅団が転属となる一方、歩兵第17旅団が豊橋で新設された。また歩兵第33連隊と歩兵第34連隊が新設され、第3師団の編成に加えられた。1904年の日露戦争の際には、第3師団は第2軍の隷下に入り、5月の南山攻撃、8月の遼陽会戦、10月の沙河会戦、1905年3月の奉天会戦に参加した。第3師団の歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太少佐(戦死後、中佐)は、遼陽会戦において戦死したが、陸軍の軍神第1号として新聞報道等を通じて戦意高揚に利用された。日露戦争後、第15師団の新設に伴い第3師団から歩兵第17旅団が転出し、歩兵第30旅団と歩兵第51連隊及び歩兵第68連隊が新設された。1918(大正7)年のシベリア出兵に際しては、ザバイカル州の治安維持等を担当した。1923年の関東大震災の際には、第3師団から工兵第3大隊と救護班が東京に派遣された。1925年の宇垣軍縮により、第3師団の歩兵第51連隊が廃止され、歩兵第30旅団と歩兵第33連隊は第16師団に編入された一方で、歩兵第29旅団、歩兵第18連隊、歩兵第34連隊が第3師団に編入された。 |
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上位の階層 | 陸軍(明治・大正期) > 師団 > 第3師団 |
レファレンス コード |
「第3師団司令部に人員増加配属の件」Ref:C03010156200 |