トップページ > グロッサリー検索
解説 | 1905(明治38)年3月の奉天会戦終結後、長春・吉林の線まで後退したロシア軍との戦闘に備えるため満洲軍政の改編が行われ、同年5月満洲軍総兵站監部が設置された。また同部の隷下に遼東兵站監部が設置され、満洲軍の補給及び遼東兵站管区内における兵站業務を担うこととなった。遼東兵站監部は大連において編成され、遼東守備軍の業務を引き継ぎ同月より業務を開始した。6月には担当する兵站管区が、新民府・奉天・撫順・葦子峪・懐仁を結んだ線以南の地区にまで拡張された。同月大連から遼陽に移転となった。遼東兵站監部の隷下には、同年7月に安東県支部(鳳凰城出張所を改組)と、遼東兵站司令部(第一〜第七)等が置かれ、それぞれに支部長および司令官が配置された。なお、占領地軍政も遼東守備軍から遼東兵站監部に引き継がれたが、関東州における民政については1905年6月に成立した関東洲民政署が担った。日露講和条約成立後、10月に関東総督府が設置されると復員となった。 |
---|---|
上位の階層 | 陸軍(明治・大正期) > 戦時組織 > 遼東兵站監部(日露戦争) |
レファレンス コード |
「第17編/第3章 遼東兵站監部」Ref: C13110401400、「単行書・大正六年陸甲三一号別冊・明治三十七、八年戦役満洲軍政史・第一巻」Ref:A04017278200。 |