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地域 | 朝鮮 |
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都市名 | 釜山 |
解説 | 倭館は、日本の使節を応接するため、15世紀はじめに設置された客館。建築、維持とも朝鮮側の負担でおこなわれていた。多いときには、ソウルと三カ所の浦所(乃而浦、富山浦、塩浦)に建てられていたが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)ですべて焼失した。戦乱直後の1607年、関係修復交渉のため釜山の豆毛浦にあらためて倭館が設けられたが、これを1678年に移転したものが、草梁倭館である。約10万坪の敷地をもち、滞在者は対馬藩の者に限られたが、常に数百人が駐在し、長いあいだ日朝交易の中心を担った。明治新政府は、日朝外交の権限を外務省に一本化する方針で、1871年から草梁倭館の整理に着手、1872年にはその接収のため花房義質が派遣された。1873年に外務省へ完全移管となり、倭館の名称も消滅した。現在は釜山市内の龍頭山公園に草梁倭館の跡を残すのみである。 |
上位の階層 | |
参考資料 | 田保橋潔「草梁倭館の接收」(同『近代日鮮関係の研究 上巻』朝鮮総督府中枢院、1940年所収)。田代和生『新・倭館-鎖国時代の日本人町』ゆまに書房、2011年。 |
歴代長官 部局長等 |
宗義達・朝鮮通交事務取扱(明治元年3月23日着任) |