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地域 | 日本 |
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都市名 | 東京 |
解説 | 復興金融委員会は、1946(昭和21)年10月29日に官制に基づき設立され、復興金融金庫(以下、復金)の業務の運営に関する重要事項を調査・審議する目的をもった委員会。同委員会は、大蔵大臣(会長)、経済安定本部長官(副会長)、関係閣僚(商工大臣、農林大臣)、日銀総裁、金融界・産業界からの学識経験者の計12名以内のメンバーから構成された。主な業務は、復金の定款変更承認、復金幹部の推薦、復金による資金融通に関する承認、復金の事業計画・予算・決算の承認である。終戦後に荒廃した日本経済の復興のてことして、日本政府は、軍需調達を通じて関連企業に負っていた債務の支払いを利用することを考え、戦時補償という形で債務支払を行っていた。ところが、GHQの反対に遭ったため、戦時補償特別措置法(同年10月19日公布)を制定し、債務支払制度は形式上残すものの、支払額に対して100%の戦時補償特別税を課すという形で戦時補償を事実上中止した。これにより、政府に債権を有していた企業、軍需産業に対して多額の融資を行っていた金融機関の収支状況が悪化した。また、旧軍人の退職金など、大量の臨時軍事支出や連合軍への占領費用支払いなどの通貨供給量増加により、急激なインフレーションが進行しつつあった上、鉱工業生産も停滞していた。これらに危機感を抱いた政府は、同年1月から復興金融機関設立を検討し始めた。同年10月7日に、「復興金融金庫法」により、経済の復興を促進するための必要な資金で他の金融機関等から供給を受けることが困難なものを供給することを目的として復金が設立された。復金の組織及び業務とともに、復興金融委員会の上記の業務も、同法により規定された。復金の活動は石炭、電力、肥料など、経済復興の鍵となる産業の復興に寄与した一方、復金により復金債発行を原因としたインフレ、非効率な企業の存続助長、企業の効率性向上に対するインセンティブ喪失という副作用を生んだ。これらの副作用の克服のため、米国家安全保障会議は1948(昭和23)10月、融資の制限、生産の増強などを内容とする「経済安定9原則」を、GHQを通じて日本政府に提示して履行を指示し、同年12月に「ドッジライン」と称される政策として実行に移された。これにより、復金機能が停止した。 |
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参考資料 | 「御署名原本・昭和二十一年・法律第三八号・戦時補償特別措置法」(Ref:A04017792600)。「御署名原本・昭和二十一年・法律第三四号・復興金融金庫法」(Ref:A04017792200)。「御署名原本・昭和二十一年・勅令第四九五号・復興金融委員会官制」(Ref:A04017844800)。「戦時補償問題」(執筆者 榎本 正敏)『国史大辞典 8』吉川弘文館、1987年、428頁。「復興金融金庫」(執筆者 麻島 昭一)『国史大辞典 12』吉川弘文館、1991年、286頁。宮崎忠恒「戦後統制期日本の政策金融」雄松堂書店、2015年1月、12~14頁。日本政策投資銀行編纂「日本開発銀行史」日本政策投資銀行、2002年3月、45~48頁。日本興業銀行「日本興業銀行五十年史」日本興業銀行、1957年、711~714頁。 |