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地域 | 日本 |
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都市名 | 東京 |
解説 | 文化事業部は、1923年(大正12年)5月7日に設置された対支文化事業局を前身とする。対支文化事業とは、1923年(大正12年)に制定された対支文化事業特別会計法に基づき、義和団事件賠償金および山東関係の鉄道、鉱山、公有財産などの補償金を運用資金として実施された中国における日本の教育文化事業である。具体的な事業内容には、在日中国人留学生・在中日本人学生への学費の補給、北京研究所のほか東京・京都の東方文化学院の設置などが含まれていた 。その後、対支文化事業は、1924年(大正13年)に中国側との「汪-出渕協定」によって「東方文化事業」と改称され、平和的親善のために中国側と共同で文化事業を行うこととされた。それに伴って「対支文化事業局」も1924年(大正13年)12月20日に亜細亜局内の「文化事業部」に縮小され、1927年(昭和2年)6月には亜細亜局から独立して外務省文化事業部となる。しかし、1928年(昭和3年)の済南事件や1931年の満洲事変などの影響で日中両国の関係が悪化し両国共同での文化事業は徐々に困難となったため、「東方文化事業」は日本による単独の文化事業となっていった。1930年代の文化事業は日中の平和的親善を目指すものから、満洲や華北、南京など日本の占領地における文化工作の側面が強くなったといえる。1938年(昭和13年)12月16日に日中戦争処理のために興亜院が設立されると、文化事業の主要業務は外務省から興亜院の管轄となり名実ともに占領のための日本の対中文化工作へと変貌した。1940年(昭和15年)には外務省文化事業部は完全に廃止され、1941年(昭和16年)には対支文化事業特別の管理権が外務大臣から大蔵大臣へと移っている。 |
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参考資料 | 「外務省官制中改正ノ件」 ( 大正13年12月20日勅令第312号 ) /「外務省官制中改正ノ件(昭和2年6月23日勅令第188号) /Ref.A03021520500/Ref.A03021656000/Ref.B05015115900/「対支文化事業」(執筆者 安部洋)外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『日本外交史辞典 新版』山川出版社、1992年、499‐500頁/「外務省文化事業部」(執筆者 清水秀子)外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『日本外交史辞典 新版』山川出版社、1992年、168‐169頁/阿部洋『「対支文化事業」の研究』汲古書店、2003年、5‐25頁。 |