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地域 | 日本 |
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都市名 | 東京 |
解説 | 情報部設置の動きは少壮官僚層と政策決定者層の双方においてパリ講和会議前後に起こった。パリ講和会議に参加した少壮外交官の間では、5大国の一員という地位にありながら初めて経験する国際会議において日本の情報宣伝活動が見劣るという問題点が盛んに指摘されていた。これを受け有田八郎、重光葵、斎藤博、堀内謙介ら少壮の外交官は外務省改革運動を起こし、1919年(大正8年)9月には外務省革新同志会を結成した。革新同志会は「革新綱領」の中で日本の国内事情を海外に発信・公報する情報宣伝機関を省内に設置することを唱っていた。また首相・外務省首脳部など政策決定者層の認識変化も情報部設置の動きにつながっていた。パリ講和会議の前後から原敬首相は公報機関を政府内に設置することが必要であると考え、講和会議全権の伊集院古彦らと情報部構想について協議を進めていた。伊集院は内閣に有力な情報局を設置し、外務省や陸海軍、大蔵省の情報を統一するという後年の内閣情報局的構想を提案した。しかし、原は強硬な陸海軍が情報の統合に抵抗するであろうことから内閣情報局構想は不可能と考え、代わって外務省内に情報部することを選択した。このように革新同志会と首脳の意思が合致したことによって、1920年(大正9年)4月に伊集院を部長とする情報部が非公式に設置され、1921年8月の勅令第383号によって正式な外務省内の部となった。情報部は「情報ニ関スル事務ヲ掌ラシム」とされたものの、情報とはいわゆる情報(intelligence)の収集・分析ではなく、公報のことであり対外情報発信を主要な役割とした。情報部は、1935年(昭和15年)12月6日に内閣情報局が設置されると内閣情報局に統合された。 |
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参考資料 | 「外務省官制中改正ノ件 」 ( 大正10年8月13日勅令第383号) /Ref.A03021344600/Ref.B14090156300/外務省編『外務省の百年 上巻』原書房、1969年、697-756、1001頁/戸部良一『外務省革新派―世界新秩序の幻影』中公新書、2010年、13-19頁/「外務省情報部設置問題」(執筆者 海野芳郎)外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『日本外交史辞典 新版』山川出版社、1992年、165-166頁。 |