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地域 | 日本 |
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都市名 | 東京 |
解説 | 1941(昭和16)年12月18日に公布された「海務院官制」(勅令第1144号)に基づき、管船局と灯台局の業務を統合して、逓信大臣の管理下に設置された。海務院の設置については、民間海運業者の統制が強化される中、1941年初頭にはそれまで統制を担っていた逓信省管船局の規模拡大のため、外局の別部局を設置する動きがあったが、海軍の意向が強く反映された案であったことに対する逓信省官僚の抵抗があり、実現に時間を要した経緯があった。その業務には、水運・造船・船舶の監督関係事項、航路・港湾・灯台、船員養成、商船学校関係事項などがあり、船員・造船・船舶に関する全面的国家管理を反映するものであった。海務院長官には海軍中将の原清、次長には逓信省の安田丈助が就任した。海務院には、長官官房に加え、総務部・運航部・船舶部・船員部・航路部の5部が置かれ、総務部は海事に関する総合計画および海事政策の総合調整等、運航部は船舶の管理等、船舶部は造船に関する監督等、船員部は船員の教育養成等、航路部は港務・水路・灯台・航路標識に関する事務等を管掌した。海務院長官は院務につき逓信大臣の指揮監督を受けることとされていたが、船員の教育および養成につき海軍予備員候補者として必要な事項は海軍大臣の指揮監督を受けることとされた。人員構成については、長官の原清中将に加え、船員部長には海軍少将若林清作が就任し、その他の職員も逓信省と海軍の半々とされるなど、海軍の影響力は大きく強まった。なお、海務院官制は1942(昭和17)年4月7日に改正され、その業務に「船舶保護法」の施行に関する事項が追加された。具体的には、「船舶保護法」中に規定されている、海軍大臣の船舶運航業者および船舶所有者に対する指示・臨検に関する職権の一部を海務院長官が担うというものであった。その後、海務院は1943(昭和18)年11月1日公布の官制により、逓信省と鉄道省が統合されて運輸通信省が設置されたのに伴い廃止となり、その業務は運輸通信省の海運総局と港湾局に引き継がれた。 |
上位の階層 | |
参考資料 | 寺谷武明『日本海運経営史3 海運業と海軍』日本経済新聞社、1981年、75~78頁。「海務院官制」(Ref:A03022664700)。「海務院官制中改正ノ件」(Ref:A03022728200)。Ref:C14020206400。 |