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地域 | 日本 |
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都市名 | 東京 |
解説 | 日中戦争の長期化に伴い、戦費と軍需生産力拡充のための産業資金は国民貯蓄によって賄われるべきとの見解から、1938(昭和13)年4月19日、大蔵省外局として国民貯蓄奨励局が新設された。同局の長官には大蔵次官が当たり、次長1名、書記官2名、事務官3名、属15名が配属。局内は総務課、第一課、第二課、第三課とされ、総務課では国民貯蓄奨励の総合計画を分掌し、第一課では三重県、岐阜県、石川県以東の東部地方の地方国民貯蓄、第二課では左記地域より西の西部地域の国民貯蓄の奨励計画を分掌し、第三課は国民貯蓄奨励の実施状況調査を分掌した。また6月6日大蔵大臣の諮問機関として国民貯蓄奨励委員会が設置。委員には各省次官、貴衆両院議員、学識経験者が任命され、各省の関係局長が幹事として各省と緊密な連絡をとった。地方には国民貯蓄奨励支局が置かれ、内務省系統の市町村の機関がこれにあたった。大政翼賛会結成後は、これを頂点として国民の末端に至るまで貯蓄組合が作られ、地方の有力者、町会長、貯蓄組合長などが運動の指導にあたった。さらに、普通銀行、貯蓄銀行、信託会社、無尽会社、信用組合、商業組合、工業組合に積極的に預金、貯蓄、金銭信託の吸収、または無尽の管掌を行わせ、郵便局には簡易生命保険の加入を勧誘させた。貯蓄運動の実施にあたっては、貯蓄目標額が決められ、中央から各府県、郡、市町村、隣組、あるいは各金融機関に対して目標額が割り当てられた。1942(昭和17)年11月、外局であった同局は本省内局に吸収され、その名称は「奨励」の2字をとって国民貯蓄局と改められた。 |
上位の階層 | |
参考資料 | 大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史Ⅱ 財政機関』、1956年、200-203頁。大蔵省百年史編集室『大蔵省百年史』下巻、1969年、157頁。 |