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地域 | 日本 |
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都市名 | 東京 |
解説 | 1886(明治19)年1月、調査局を改称して創設。国の予算編成、予算の施行状況の監査、決算の調製、会計制度の立案など主として国家の運営に必要な経費に支出を管掌する部局。予算の調製にあたり、まず各省が主計局に対して、歳出概算書を提出して予算の要求を行い、これに対して主計局は、この歳出概算書と主税局の提出する歳入概算書とをあわせて勘案し、各省の要求を査定するというのが、通常の予算の編成方式であった(主計局中心主義)。また、最初予算閣議で大蔵省案の内示後、各省が復活要求を行い、査定案を練り直した後に閣議に再度諮っていた。ところが、1933(昭和8)年8月の満洲事変以後、すなわち、軍事費の優先的査定とその要求額の増加が容認されるようになり、陸海軍省以外の各省の行政費は徹底的に削減され、新規要求はほとんど認められなかった。各省予算の要求が行われる前に、大蔵省主計局長、主税局長、理財局長の三局長が陸海軍省に赴き、軍部に対して事前に歳入、歳出、公債の発行状況を説明し、陸海軍は、作戦計画、軍備について大蔵省の了解を求めるようになった。予算作成当局者は、陸海軍省予算係官、参謀本部の軍備予算担当者と個別的折衝を行い、その折衝後、各省の予算概算の査定が行われた。また、国策統合機関として権限強化を目的として、1937(昭和12)年10月に企画院が設置されると、総動員計画の遂行上、各省および主計局に対して「予算統制事項」の実行に関する指示を行ったため、予算編成機関である主計局との間で権限争議を展開することとなった。さらに、戦時財政遂行の過程で、1941(昭和16)年度から重要政策に関する予算措置の採否は、閣議において最後的折衝を行った後に決定することとなった。その準備交渉として、主計局の予算の査定と並行して、新規要求の中でも重要政策に関するもの、多額に上るもの、既定経費でも多額に節減しようとうするものを、まず次官会議に付議し、各省次官との間で決定しなかったものを閣議に送るという方法がとられるようになった。このように、戦時予算編成方式は、主計局中心主義から閣議中心主義へと徐々に移行していった。1942(昭和17)年7月、主計局の構成(予算課、決算課、調査課、法規課)は改正され、予算編成事務を統一的に担当してきた予算課は廃止。予算調整の統括は主計局長のもとで行われるようになり、各省所管の一般会計および特別会計の予算および決算に関する事務は、第一課から第四課までの各課で各省別に分割して取扱われるようになった。中央集権化の傾向はより強まり、1944(昭和19)年6月には、各課で担当していた各省所管の一般会計および特別会計の予算・決算事務は第一課にまとめられ、総合的に扱われるようになった。 |
上位の階層 | |
参考資料 | 「大蔵省主計局」(執筆者 大森とく子)『国史大辞典』第2巻、558-559頁。大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史Ⅱ 財政機関』、1956年、31-34頁、140-151頁、230頁。 |