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地域 |
沖縄
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都市名 |
沖縄本島
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解説 |
1944年3月、南西諸島防衛のため、大本営直轄として編成。5月に西部軍の隷下、6月に台湾軍(第10方面軍)の隷下へと移った。7月、絶対国防圏の一角であるサイパンが陥落し、南西諸島をめぐる情勢が急変。航空基地及び主要港湾の防備を目的とする2個混成旅団、1個混成連隊から、決戦を目的とする4個師団、5個混成旅団へと大幅に兵力が増強され、司令部の人事も一新された。しかし11月、レイテ決戦を重視した大本営の指導により、基幹兵力である第9師団を台湾に抽出。第32軍は、決戦から戦略持久への方針転換と、部隊の配置転換を余儀なくされた。1945年3月26日、慶良間列島に米軍上陸、次いで4月1日、沖縄本島の嘉手納に上陸が開始された。早くも4月3日には南北に分断され、以降は南部の防衛が作戦の中心であった。首里附近の主陣地で一進一退の攻防を繰り広げたが、次第に後退。5月4日には攻勢に転じたが、逆に大きな損害を受けた。5月22日、島尻南部に後退。防御戦闘に徹したが、6月19日、ついに組織的戦闘を終了。23日、軍司令官牛島満中将以下、司令部の幕僚は自決し、以後は各部隊の生き残りが戦闘を続けた。数千名の残存将兵は、洞窟陣地に拠って遊撃戦を試みた。また、1,000名を下らない数の将兵が、敵中突破して国頭郡に脱出し、遊撃戦を継続しようと試みたが、そのほとんどは目的を達することができなかった。終戦後、9月上旬までに、大部分の将兵が投降し武装解除。石川等の各地の収容所に入った。他に、布哇その他の地域の収容所に入った残存将兵も含めれば、本土より派遣された将校約500名、下士官約1,500名、兵約7,000名の総計約9,000名、及び沖縄出身の将兵約8,000名、海軍関係約1,000名であった。沖縄本島よりの復員は、1945年10月から1947年1月にかけて行われた。なお、朝鮮人・台湾人は連合軍の指示により、沖縄本島及び宮古島に残留、別個に復員した。沖縄県人は各部隊ごとに現地除隊となった。最後の司令長官牛島満中将は1945年6月23日に自決。
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参考資料 |
C11110337100、C12122499000、『沖縄方面陸軍作戦』,http://www.y-mainichi.co.jp/news/8314/、C11110002300、読谷村史http://www.vill.yomitan.okinawa.jp/sonsi/vol05b/index.htm、『引き揚げと援護三十年の歩み』p.67
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