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地域 |
中国
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都市名 |
南京
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解説 |
支那派遣軍は、全中国(「満洲国」は除く)に対する政戦略の統轄、重慶工作の促進等を目的に、1939年9月南京に編成された。初代総司令官は西尾壽造陸軍大将。司令部の管下には北支那方面軍、第11軍、第13軍、第21軍が置かれた。ただし華北の北支那方面軍や、華南の第21軍に対しては、作戦・政務の大綱を把握するのみで細部は委任、兵站・補給に関しては直接中央の指導を受けさせていた。太平洋戦争の情勢が厳しくなると、支那派遣軍は中国戦域へ進出してきた米空軍と戦闘、また米軍の上陸に対する作戦を準備。北方では対ソ作戦準備を実施し、一部はソ連軍と交戦。終戦時の総司令官は岡村寧次、総兵力は約105万。岡村は1945年8月15日に終戦の詔書を聞き、16日には大本営命令に基づいて積極的進攻の停止、夜には戦闘行動の即時停止を隷下に示達した。8月21~23日、湖南?江にて、投降準備のための会談(日本軍代表は今井武夫、中国側は陸軍総司令部司令官何応欽・同参謀長蕭毅肅など)。ここで日本側へ、中字第1号の備忘録が手交された。その主要な内容は、①蒋介石の任により、何応欽が中国戦区内の日本の高級指揮官、及び陸海空軍とその隷下部隊の投降を担当すること、②日本軍最高指揮官である岡村寧次が、何応欽による一切の規定の執行を行うこと、③台湾及びベトナム北緯16度以上の地区も岡村の指揮下に入ること、④中国戦区の正式な受降地点などであった。8月26日、何応欽は命令を出し、中国戦区を16の受降地区に区分し、各地の受降主官を司令した。9月2日、日本は同盟国に対し降伏、9月9日中国戦区の日本軍も、南京で中国に対し正式に降伏した。9月10日、支那派遣軍総司令部は解消し、「中国戦区日本官兵善後総連絡部」と改称された。これに伴い各地の方面軍・軍司令部も「(地名)日本官兵善後連絡部」と改称され、総連絡部の指揮を受けつつ、何応欽総司令官や各地受降主官の命令に従った。中国軍管轄地域の陸軍部隊の帰還は、1945年11月から1946年7月までに、一部の残留者を除いて一応完了。
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上位の階層 | |
参考資料 |
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第7巻、森松俊夫「支那派遣軍」、吉川弘文館、1986年、19~20頁/防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部<1> 昭和十五年五月まで』朝雲新聞社、1967年、614頁/防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 昭和二十年の支那派遣軍<2> 終戦まで』朝雲新聞社、1973年、544~549・559~566頁/厚生省引揚援護局庶務課記録係編『引揚援護の記録・続々』厚生省、1963年(復刊2000年、クレス出版)、323頁/中国第二歴史档案館編『中国戦区受降紀実』江蘇人民出版社、2005年、131~135頁。
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