Top Page > Japan's Wartime and Postwar Periods Recorded > Search by Q&A > Law and Politics Q&A
はい、本当です。1928(昭和3)年から1943(昭和18)年まで、日本では国民が裁判に参加する陪審制を取り入れていました。
戦前における陪審員制は英米のそれと同じく事実認定を陪審員のみが行っていましたが、現在の裁判員制度では裁判員と裁判官がともに決定する点が大きく異なります。
明治時代の前半の段階で既に憲法や治罪法(刑事訴訟法の前身)の制定をめぐって、民間で陪審制の採用が主張されるだけではなく政府のレベルでもその導入は検討されていました。
しかし、結局のところ陪審制は制定された治罪法や大日本帝国憲法、治罪法には書き込まれませんでした。
こうして実現の可能性がなくなったと思われていた陪審制を強く推進したのが、日本初の本格的政党内閣の首相となった原敬でした。
原は人権擁護、司法の民主化をかかげ、また司法権の独立を盾に独自の政治勢力となった司法官僚の抑制を狙っていました。
原が暗殺された後も、陪審法案は続く高橋是清内閣、加藤友三郎内閣によって引き継がれ1923(大正12)年に成立しました(Ref.A13100661600)。
陪審法案は1928(昭和3)年に施行され、日本における陪審制が始まります。
その対象は死刑および無期懲役・禁錮がかかる事件(法定陪審)であり、そして3年以上の懲役・禁錮がかかる地方裁判所の管轄に属する事件でかつ被告が希望する場合(請求陪審)でした。皇室や軍事機密にかかわる事件は対象外でした。
また、陪審員の出した答申を退けて別の陪審にかけることができる(陪審の更新)など判事の権限は強いものでした。
陪審員は国民全てに資格があったわけではなく、直接国税を3円以上収める読み書きのできる30歳以上の男子に限定されていました。
同じ年から施行された普通選挙法に納税の条件がなく25歳以上の男子全てに選挙権を与えていたのとは対照的でした。
スタートした陪審制度ですが、自動的に対象となるはずの法定陪審でも辞退が許されており、また陪審制の対象になると控訴ができなくなる(当時の最高裁判所である大審院への上告はできる)などの理由から、法定陪審は多く辞退され請求陪審の請求はきわめて少なかったため、陪審裁判の数は事前予想をはるかに下回りました。
ただし、陪審裁判の無罪率は高かったと言われています。
さらに無罪のみならず公訴事実よりも軽い罪が認定された場合も多く(殺人が傷害致死に、殺人未遂が傷害になるなどのケース)、これらを足し合わせると3~4割程度になったと推定されています。
もちろん、陪審裁判の数が少ないにもかかわらずあえて陪審を辞退しない、もしくは陪審を請求した被告の無罪や罪の軽減の例が多くなるのは当然とも言えます。
しかしこうした傾向は判事や検事たちを大いに困惑、警戒させており、少なくとも陪審が形骸化していなかったことの証拠にはなるでしょう。
戦争の時代を迎えると陪審裁判の数はさらに減り、戦争に関わる業務の激増で疲弊する市町村の役所からは、陪審員資格者・候補者名簿を作成する事務を取り止めるために陪審法を廃止してほしいという要望が多く寄せられるようになりました。
1943(昭和18)年、戦争遂行のため陪審法は「一時」停止されました(Ref.A14101176100)。
しかし、戦争が終わっても陪審制が復活することはありませんでした。(アメリカ統治下の沖縄ではアメリカ民政府裁判所において1963年から刑事陪審制が、1964年から民事陪審制が陪審員の国籍を問わずに実施されましたが、本土復帰とともに廃止されました)
画像1 桐蔭学園アカデミウムに移築復元された横浜地方裁判所陪審法廷(桐蔭学園ホームページより)
戦前の経験は陪審制が日本の風土に向いていない証拠として挙げられることもありましたが、2009年から裁判員制度が施行されたことで注目すべき歴史として再び脚光を浴びています。
もちろん、現在の裁判員制度には納税資格による制限がなく、被告が裁判員裁判を辞退できず、裁判官が裁判員の評決を退けられないという相違が存在します。
それでも日本に裁判員制度を根付かせるためにもより戦前の陪審制について知る必要があるかもしれません。