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はい、本当です。戦後直後まで制限選挙が実施されていました。
今年から、満18歳以上の日本国民が有権者として投票できるようになりましたが、戦前・戦中・戦後の選挙はどのように行っていたのでしょうか?
日本における近代的選挙法は1889(明治33)年の衆議院議員選挙法(明治二十二年法律第三号、Ref.A03020030200)をもって始まりました。
この法律では、選挙人(投票する人)は、「日本臣民の男子にして年齢満二十五歳以上」(第六条第一項)とされ、満一年以上直接国税十五円以上を納める者(但し所得税については満三年以上を納めることが必要)に制限され(第六条第三項)、被選挙人(議員候補)になるにも、「日本臣民の男子満三十歳以上」で満一年以上直接国税十五円以上を納める者(但し所得税については満三年以上を納めることが必要)に限られていました。
また、軍人が政治に介入することを避けるため、現役の陸海軍軍人には選挙人、被選挙人としての権利は認められていませんでした(第十五条)。
そして、女性や台湾・朝鮮という外地に在住する「日本臣民」もまた選挙人および被選挙人となることはできなかったのです。
では、なぜ選挙権は満25歳以上の男子、被選挙権は満30歳以上の男子のみに与えられていたのでしょうか?
アジ歴資料に、その理由を示す明確な資料は見当たりませんが、どうやら、選挙権については、「成年に達した者は治産の能力もありまた兵役の義務も負っているので、選挙権を与えても差し支えない(第13回貴族院 一木喜徳郎政府委員)」が、「二十歳はまだ学校に在籍しているか、あるいは学校を卒業したばかりの時期で思想もまだ定まっていないため、政治上の大権を与えるべきではない(第13回貴族院 曽我祐準、周布公平)」といった判断や、「被選挙権は国家の重大な公職を奉じる者を選ぶから年齢制限に差異があるのは不当ではない(第十二回衆議院前川槇造)」といったあいまいな理由から決められていたようです(Ref.A03033662400)。
こうした制限選挙を大きく変えるきっかけとなったのが、1918(大正7)年の米騒動と翌年のパリ平和会議を契機として大衆化した普通選挙制度の獲得運動、いわゆる普選運動でした。
社会的地位、財産、納税、教育、信仰、人種、性別などによって選挙権を制限せず、成年の男女に等しく選挙権を認めるよう選挙法の改正が主唱されました。
当時、小学校教員や神職僧侶といった有識者からも、被選挙権を求める請願がなされたり(Ref.A03033662900、Ref.A03033663000)、それまで参政権はおろか、政治結社(政党)に加入したり、政談集会に会同したり発起人になることすら、治安警察法(Ref.A15113369400)で禁じられていた女性からは、こうした制限の撤廃を求める声が上がり政治的・社会的権利の獲得を目指す請願運動が高まりをみせました(Ref.A03033663100)。
こうした民衆の強い要求を受けて、大正14年に改正衆議院議員法(法律第四十七号、Ref.A03021545200)、が実施され、年齢制限は変更されずに納税要件が撤廃されることとなりました。
画像1 選挙粛正運動概況送付の件(Ref.C01002224900、33画像目)
しかしながら、同改正案では女性参政権、いわゆる婦人参政権は認められることはありませんでした。
また、納税要件が撤廃された一方で、普通選挙の施行により選挙人および被選挙人の数が増加したため、当時のイギリスにならい、好奇心や売名を目的とする候補者や、選挙の妨害をしようとする候補者を排除する目的から、この法律では供託金制度(金銭、有価証券などを国家機関である供託所に提出して、その管理を委ね、最終的には供託所がその財産をある人に取得させることによって、一定の法律上の目的を達成しようとするために設けられている制度)を導入しています。
具体的には、「議員候補者一人につき二千円又は之に相当する額面の国債証書を供託する」ことになり、一定の率の得票率を得なかった候補者に対して一律に前納した高額な供託金を没収するというものでした(法律第四十七号、第68条)。
供託金は2000円という金額ですが、大正15年の大卒初任給が50円であったことを考えると、いかに高額であったかが窺えます。
画像2 選挙粛正運動概況送付の件(Ref.C01002224900、24画像目)
ところが、普通選挙法が制定され政党内閣時代が全盛になるに従い、投票買収といった腐敗が横行したため、政治腐敗をなくすための選挙粛正運動が展開されるようになります。
この運動は次第に政党政治に不満をもつ内務官僚が陸軍と共同して政党政治を批判する方向へと向かいました(Ref.C04014770700)。
犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)で政党内閣時代は終わりをつげると、斉藤内閣は選挙法取締り強化の大改正を行い、その一貫としてつぎの岡田内閣は、昭和10(1935)年5月に選挙粛正委員会令を公布して、官民共同の全国運動へと発展させていきました。
選挙粛正委員会は各道府県につくられ知事が会長となり地方有力者が委員に任命すると、選挙粛正運動は在郷軍人会、青年団、部落会・町会・婦人会を組み込んで戦時協力体制を構築する推進力となっていきます。
さらに、東條内閣は、各界代表33名による翼賛政治体制協議会(会長は元首相の阿部信行陸軍大将)を結成して候補者の推薦制による総選挙の実施を閣議で決定すると、翼賛選挙貫徹運動へと発展させていきました。
女性の参政権については、戦後改革によって成立した衆議院議員選挙法中改正法(昭和二十年法律第四二号、Ref.A04017708500)まで待たなければなりませんでした。
一方、供託金制度は、戦後の公職選挙法(昭和25年4月15日法律第百号)でも継承され、現在の衆議院議員(小選挙区選出)、参議院議員(選挙区選出)では、300万円を供託しなければ立候補できないきまりとなっています。