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地域生活のまとまりが日中戦争以降に整備されたのが町内会のはじまりです。
夏祭りから一斉清掃のお知らせまで、私たちの生活に密着している「町内会」。
これにはどんな歴史があるのでしょうか?
近世の「五人組」などを原型とした「町・村」のグループが整備強化されたのは、日中戦争以降です。
1940(昭和15)年9月、内務省訓令「部落会町内会等整備要領」(Ref.A06030085800)により、「昔からの隣保共助の美風」に基づいて、村に部落会、町に町内会をつくり、その下に隣組を置くことが決定しました。
その目的は、住民を団結させて「万民翼賛」を図り、国策を透徹し、経済統制をしやすくすることでした。
隣組は1組10世帯程度でつくられ、回覧板と常会を通じて日々の生活に関わりました。
回覧板は、政府の伝達を住民に周知徹底する道具でしたが、住民にとっては、配給などの情報を知る戦時生活の要でもありました。
回覧板を受け取ると所定の位置に判をついて隣へ回しましたが、このようなスタイルは現在とよく似ています。
一方、常会は住民協議の場でしたが、文部次官通牒「常会ノ社会教育的活用並ニ指導ニ関スル件」(Ref.A06030085800)で、戦時下の住民教育や指導をする場として着目され、「社会教育ノ徹底ヲ図ル為最モ有効適切ナル方途」として活用が促されました。
そして、1941(昭和16)年11月から常会は全国で定例化されました。
町内会というと、竹やり訓練やバケツリレーを想像しますが、これらは「防空」とよばれ、重要視されました。
「私たちはみ国を護る戦士です、いのちを投げ出して持場を護ります」という「防空座右銘」のもとに町内の一致団結がはかられ、「全都市の家庭が一燈たりともゆるがせにせぬよう」灯火管制にあたり、爆撃の際は消火につとめるように求められました。
また、町内会は生活品をコントロールしていました。
1940(昭和15)年から砂糖とマッチが統制されましたが、「陸軍物資統制規則解説」(Ref.C13070743500)では、購買票の入手について、「町会ヲ経ルコト」と示しています。
統制は米や食料品全般、糸やタオルにも及びましたが、配給品は生活に不可欠だったため、町内会からの逸脱は死活問題でした。
そして、町内会には「防諜」という役割もありました。
1942(昭和17)年発行の『隣組防犯講座 第五輯 防諜』(楠瀬正澄著、人文閣)を見てみましょう。
これによると、「今日私の会社から××名応召しましたが、××方面に行くやうですよ」といった会話が軍事情報を漏らす行為になるとされ、または、「いまに××が不足しますよ。戦争で生産ができませんから……今の中に買溜めて置くんですね」といった会話は社会撹乱につながるので心すべきとしています。
回覧板(画像2)にも、「若しこんな通信をすれば、スパイの手でどんなに悪用され、どんな大きな不利を招くかも判りません」とありますが、その内容を見ると、近所づきあいの何気ない会話です。
このような日常的なやりとりにまで監視や統制が及ぶようになり、町内会は個人生活に深く入り込むようになりました。
その後、町内会は大政翼賛会の下に置かれます。
「大政翼賛会支部規程改正並びに地方統制委員会規程制定の件」(Ref.A15060021600)では、町内会や部落会、隣組に世話人を置くことが示されています。
世話人は大政翼賛会の支部長の推薦で決まり、全国民的な戦争協力への指導が徹底されるようになりました。
行政的にも、1943(昭和18)年に地方制度が全面改正され、町内会・部落会は末端の補助機関として位置づけられました。
戦後、戦争を草の根的に支えたとして、占領軍が町内会活動を禁止します。
これに対し、内務省は存続を企図して対立しました。
結局、1947(昭和22)年に町内会・部落会は廃止されましたが、実際は、名称を変えるなど形を変えて生き続けました。
例えば、東京都では、防犯・防火を名目とした組織が許されたため、町内会の一部を引き継ぐことができました。
そして、1952(昭和27)年4月、対日講和条約の発効によりこの禁止も解かれ、町内会は地域組織として復活しました。