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はい、戦時中は厳しい統制を受けていましたが、人々はそれでも笑いを求めていました。
開戦前から戦時中にかけては、落語や漫才など大衆の笑いに関する娯楽に対して統制がかけられてきました。
1937年11月17日に内務省警保局長より出された「興行取締ニ関スル件」(Ref.A05032039600)によれば、最近のこれらの大衆芸能は「低調卑属」なものへと堕落しており、今後は「時艱克服ノ為協力セシムル」べく、「戦地銃後ニ於ケル活動ヲ茶化シテ国民ノ事変ニ対スル厳粛ナル感情ヲ傷クルガ如キコトナキ様」指導することが盛り込まれています。
そのため各種芸能団体は警察の指導を受け、演目や活動などを自粛するようになりました。
例えば落語界では、「三枚起請」や「品川心中」など有名な廓話(くるわばなし)や花柳物・妾物・酒の噺(はなし)など名作53本を「禁演落語」に指定し、これらの噺を葬るべく1941年10月30日に東京・浅草寿町の本法寺に「はなし塚」を建立し供養しました。
そしてそれとは対照的に、戦意高揚を目的として、倹約や献金・出産奨励・防諜(スパイ防止)などを題材とした「国策落語」が新作として創作されたり、それまでの古典落語の噺の筋を戦争物に合わせてアレンジするなど、世相を反映した内容に改めて口演されるようになります。
また落語と同様に、漫才でも時局に合わせた「国策漫才」が作られるようになり、また当時人気のあった女性漫才師ミスワカナやリーガル千太・万吉の漫才コンビも、洋風の芸名は時局に相応しくないとの理由から「玉松ワカナ」や「柳家千太・万吉」に改名させられるなど、厳しい統制を受けながらも口演されてきました。
画像2「演芸人関東軍慰問の件」(Ref.C04011722900)
その一方で、満州事変以降、戦地の兵士たちを少しでも演芸やお笑いなどで明るく励まし、士気を向上させるべく、人気のある芸能関係者らを慰問のために戦地へと派遣してきました。
これらの戦地慰問を担当していたのは、当初は陸軍省新聞班で、後に陸軍恤兵部や陸軍大臣官房が取りまとめるようになり、落語家や講談師・漫才師・浪曲師・剣術家・舞踏家から歌舞伎まで、あらゆる芸能分野で演芸に従事する人々が派遣されました。
画像2は、当時最も人気のあった横山エンタツ・花菱アチャコの漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」が、1933年11月から12月にかけて満州に派遣された時の資料です。
特に日中戦争以後、吉本興業と朝日新聞が共同で中国大陸へ派遣した演芸慰問団は、当時の日本軍の戦闘機部隊「荒鷲隊」をもじって「わらわし隊」と名付けられ、数次にわたり派遣されました。
このように大陸に送られた慰問関係者の中には、後に名人と呼ばれた落語家・五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭圓生のように、1945年5月より慰問で満洲に渡っている間に終戦を迎えて帰国できなくなり、1947年まで現地で引き揚げを待つことになる人々もいました。
戦後になると、これらの戦時中の芸能統制は解除されることになりますが、他方でGHQ(連合国軍総司令部)は「プレスコード」を敷き、GHQ民間情報教育局(CIE)映画・演劇班や参謀第二部(G2)民間検閲局(CCD)プレス・映画・放送課(PPB)が仇討ち物や心中物など封建的・軍国主義的な内容の演芸に対して統制をかけるようになりました。ですが、戦後の開放的な社会の中で、人々は笑いや娯楽を求めて大衆芸能も積極的に動き出してゆきます。
先の例に挙げた落語では、1946年9月30日に「はなし塚」に供養された禁演落語53本の復活祭が行われ、以後これらの作品も自由に口演することができるようになり、1947年1月30日に日劇小劇場で「禁演落語復興祭」が開催されました。
また1951年9月1日よりラジオの民間放送開始を受け、先の五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭圓生の他に八代目桂文楽・三代目三遊亭金馬などが放送局専属契約を結び、ラジオで落語ブームが起こるようになります。
その後落語は、寄席やホールなどのホール落語から、1953年テレビ放送開始を受けてテレビでも人気を博すようになり、現在の大衆娯楽の地位を確立することになります。