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戦前は、年間数万人の外国人が日本を訪れていました。
その推移は、「図1 戦前の訪日外国人数」の通りです。
観光客を含む訪日外国人は、ゆるやかな増加傾向にありましたが、戦争によって国際観光は中断を余儀なくされます。
しかし、戦後しばらくして国際観光が復活すると、国際線・国際航路の拡充や受け入れ態勢の整備とともに、訪日外国人数は順調に増加していきました。
1950年代後半に年間10万人、1970年代後半に年間100万人、2010年代前半に年間1,000万人を突破。
現在は、年間2,000万人を突破するようになりました。
以下、近代日本の国際観光のあゆみを、時代背景とともに振り返ってみましょう。
海外から日本を訪れる訪日外国人(※1)の誘致を国策の一環とするようになったのは、明治後期です。
国際観光による人々の交流が国際親善につながるだけでなく、外貨の獲得や、国内の観光産業の発展が期待できたからです。
※1 観光庁や日本政府観光局(JINTO)の公称は、「訪日外国人旅行者」「訪日外客」です。
戦前から昭和20年代にかけては、「外客」という表現が一般的に用いられました。
また、観光を目的とした訪日外国人に限定し、訪日外国人観光客(公文書では「外国人観光旅客」)と呼ぶこともあります。
画像1 帝国ホテル
国際観光にいち早く着目し取り組んだのは、実業家の作った民間団体でした。
1893(明26)年、渋沢栄一・益田孝らの尽力で、帝国ホテル内に設立された喜賓会です。
1899(明治32)年まで、日本は外国人の国内旅行を制限していました。
しかし、彼らは国際観光の振興が将来の国際親善や貿易の発達にもつながると考え、訪日外国人の旅行の便宜を図ったのです。
その後、政府も国際観光の重要性を理解し、1912(明治45)年には鉄道院が援助し、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社、現在の株式会社JTB)を設立しました。
画像2 雲仙観光ホテル(雲仙観光ホテル提供)
そして1930(昭和5)年、政府は鉄道省の外局(専門性・独立性の高い局)として国際観光局を設置しました。
当時、景気の悪化や輸出の減少、それに関東大震災後の復興事業による資材の輸入超過が重なり、国際収支の悪化が問題視されていました。
その解決策として、政府は国際観光に着目しました。
日本に外貨をもたらす訪日外国人を積極的に誘致することで、国際収支の改善を期待したのです。
訪日外国人の受け入れには、観光地や宿泊地などの様々な環境整備が必要でした。
そこで、訪日外国人の受け入れに適した「国際観光地」を選定し、1934年に国立公園法が成立しました。(※2)
また、主要な観光地に「国際観光ホテル」が次々に建設されました。
海外では、日本の観光地を宣伝しました。
こうした努力をつみ重ねた結果、訪日外国人は次第に増加し、1935(昭和10)年には42,629人(うち、観光目的は16,045人)に達しました。
しかし、日中戦争で中国人観光客が減少し、第二次世界大戦で欧米人観光客も減少します。
最終的に、政府も国際観光どころではなくなり、1941(昭和16)年に内務省の国際公園委員会を廃止し、1942(昭和17)年11月に国際観光局も廃止しました。
※2 自然環境の保護、日本国民の休養だけでなく、訪日外国人の利用を目的に作られた法律でした。
「国立公園法」(類01764100)
戦後、GHQによる占領統治で、民間の訪日外国人は入国できなくなりました。
また、訪日外国人のために建設した国際観光ホテルは進駐軍が接収し、日本交通公社(現在のJTB)の仕事も、進駐軍や引き揚げ者の斡旋へと変わりました。
政府は、外貨の獲得のために国際観光の復活を目論見ますが、すみやかな実現は難しい状況でした。
例えば、1947(昭和22)年12月に「通訳案内業法案」(Ref.A14110220900)が衆議院に提出されましたが、GHQの承認を得ることができず、廃案となっています。
民間の訪日外国人の入国は、1947(昭和22)年から徐々に始まりました。
商用客は8月から、一時上陸(観光)客は12月から入国が許可され、最終的には商用客が482人、観光客が45人の計549人でした。
その後も、訪日外国人数は順調に増加していきます。
1948(昭和23)年は6,310人、1949(昭和24)年は15,293人でした。
しかし、占領統治下では旅行先が制限されました。
その行き先は、寄港地の近郊の都市、東京・大阪・神戸・京都・奈良・横浜・鎌倉・熱海などでした。
1949(昭和24)年、政府は運輸省大臣官房観光部を設置しました。
この年を境に、国際観光の復活にむけた動きが本格化します。
訪日外国人の接遇向上のため、外国人に付き添い、外国語を用いて旅行を案内する者を免許制とする、「通訳案内業法」(Ref.A13111220600、現在の「通訳案内士法」)が成立しました。
外国人観光客の宿泊に適した洋式の構造、及び設備を有するホテルその他の宿泊施設を「登録ホテル」として認定する、「国際観光ホテル整備法」(Ref.A13111225800)が成立しました。
将来の国際航路の設定を見据えて、半官半民による日本航空の創設準備が進められました。
また、各種の「特別都市建設法」が成立し、有名観光地における国際観光の振興が戦後復興の一環として取り組まれるようになりました。
以後、「図2 戦後の訪日外国人数」が示す通り、1,000万人の王台に迫るまで、訪日外国人数は順調に増加し続けました。
そして近年、頭打ち状態を脱却べく、観光庁は「ビジット・ジャパン・キャンペーン」(VJC)を開始しました。
その結果、訪日外国人が急増し、ついに年間2,000万人の王台を突破しました。
「観光は平和へのパスポート(Tourism; Passport to Peace)」という言葉があるように、国際観光の発展が、国際平和の増進につながっていくことを願います。