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Q&A

戦時中にもパスポートってあったの?


画像1 外務省外交史料館所蔵 外交史料館で所蔵する現存最古のパスポート(賞状型)1866年(慶應4年)

戦時中にもパスポートはありました。しかし同時にパスポートに代わる「身分証明書」も存在していました。


日本のパスポートは、幕末の1866年(慶應2年)に修業や商業のために海外に渡航する人たちに対して、江戸幕府の外国事務局が発給したものが最初であるとされています。


当初、現在と同じ「旅券」という名称は定まっておらず、「印章、印鑑、旅切手」などと呼ばれ、形状も一枚の紙で賞状のような形をしていました。


その後、1878年(明治11年)に制定された「海外旅券規則」によって、パスポート(passport)の訳語として「旅券」を採用することが決定されました。


旅券が現在のパスポートのような手帳型になったのは、1920年10月にパリで開催された「旅券に関する国際会議(Conference on Passports, Customs Formalities and Through Tickets)」において国際旅券の形式を統一することが決議されて以降です。





画像2 外務省外交史料館所蔵 1925年(大正15年)使用開始のパスポート

その後の日本のパスポートの発展の歴史はハワイやアメリカ、南米大陸への移民の歴史と密接に結びついています。


1885年に日本とハワイ王朝の間で官約移民の送出契約を含んだ「渡航条約」が結ばれると、それまで年間1000~1500人程度であった渡航者数は1885年には年間3000人を超え、ハワイ移民は急増しました。


ハワイ移民が急増する中、1893年にハワイを併合したアメリカとの間で日本人移民をめぐる外交問題も大きくなっていきます。


その中で厳しい環境に置かれていた移民の保護を図るとともに、対米関係を考慮して移民数を制限するために1896年出されたのが「移民保護法」(Ref.A15113085300)でした。


「移民保護法」(Ref.A15113085300)では、移民保護の観点から移民に旅券の携帯を改めて義務付けるとともに、移民数を制限するため、移民として海外渡航する場合には行政庁の「渡航証明書」がなければ旅券を発行しないことに定めました。




1908年に日米紳士協約が結ばれると、日本はアメリカに渡るあらたな移民への旅券の発行を禁止したため、移民の再渡航もしくは家族の呼び寄せ以外の方法では渡米できなくなりました。


以降、日本政府は移民に対して一般の旅券とは区別された「移民専用旅券」を発行するようになりました。


誰が移民であるのかを明確にして監督を強化することで、移民数を自主規制したのです。


因みに、「移民専用旅券」の発行対象者は、渡航船の1、2等客室の宿泊者を除く3等客室の宿泊者とするという乱雑なものであり、制度上、齟齬をきたすようになりました。


1930年(昭和10年)なってようやく、移民専用旅券の発行対象者は、渡航目的を労働とするものへと変更されたのです。




こうした日本側の努力をもってしても日系移民に対する日本人排斥の動きは収まらず、1924年にアメリカで新移民法が制定されると、アメリカへの移民は事実上できなくなりました。


代わって増加したブラジルなど南米への移民も日中戦争が始まる前の1935年頃には下火になっていました。


パスポートを発給する主要な対象であったアメリカ大陸への移民数も、戦争が始まる前には大きく減少しました。





画像3 外務省外交史料館所蔵 「1940年(昭和15年)発給の旅券(表紙)」

一方、アジア圏も日本人移民の主な海外渡航先となっていました。


しかしアジア圏とくに日本の植民地や占領地ではパスポートが不要な場合が多く、例えば中国については、1918年1月25日に吉澤謙吉臨時代理公使と陸徴祥外交総長との間で両国国民のパスポートの免除が正式に確認されています。


さらに、日本の影響下にあった「満洲国」や同盟関係にあったタイでもパスポートは不要でした。


とはいえ、実際に戦時中の日本人が現在のわたしたちのように自由に海外旅行に行くというのは難しかったようです。


中国を事例に説明すると、日中戦争が勃発した翌月の1937年8月31日には「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」(Ref.A06050953600)という外務次官の通牒が出され、日本占領地の治安維持のために中国渡航希望者の居住地の警察が発行する身分証明書の携帯が義務付けられました。


さらに戦争が拡大していくと、日本軍が中国での戦費支払に使っていた圓系通貨(占領地通貨や軍票)のインフレが起こります。


中国渡航者が日本円を圓系通貨に両替することでインフレが加速することが懸念されたため、1940年5月7日に「渡支邦人暫定処理ニ関スル件」(Ref.A06030108200)が閣議決定されて、「不要不急ノ旅行」に対する身分証明書発行は極力制限するよう通達がなされました。




敗戦後、日本政府は外交権を失い、自国民に対して旅券を発行することができなくなり、旅券事務を代行したGHQは基本方針として日本人の海外への渡航を許可しませんでした。


その中でも、例外的に終戦事務に従事した人々に旅券が発行されほか、占領地の米国軍人と結婚した戦争花嫁や近親者の呼び寄せによる南米への移住者などの移民に対しては、旅券ではなく外務大臣発行の身分証明書やGHQの特別許可などが発行されていました。


旅券の発行数が年ごとに大幅に増加するにつれ、GHQが担当していた旅券事務や発行権限は徐々に日本側へ移譲されます。


そしてサンフランシスコ平和条約の調印後、その発行と主権回復にあわせて1951年11月28日に「旅券法」(Ref.A13111628300)が制定・公布され、日本政府は旅券発給の権限を完全に回復しました。


移民ではなく個人が自由な観光旅行を楽しむことができるようになったのはそれから10年以上後の1964年のことです。

【 参考文献 】

  • 柳下宙子「戦前期の旅券-形式の変遷を中心に」陳天璽・近藤敦・小森宏美『越境とアイデンティティ-国籍・パスポート・IDカード』新曜社、2012年。
  • 春田哲吉『パスポートとビザの知識』有斐閣、1994年。
  • 木村健二「近代日本の移民・植民活動と中間層」柳沢遊・岡部牧夫『帝国主義と植民地』東京堂出版、2001年。

【 参考資料 】