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戦前にも現在所謂「鉄っちゃん」と呼ばれるような鉄道趣味を持った人々は存在していました。
日本で最初の鉄道趣味人として知られるのは、明治30年代に各地の鉄道車両等の写真を撮影させた、岩崎輝彌・渡辺四郎の2人だとされています。
岩崎は三菱財閥の岩崎彌之助の三男で、渡辺は東京の海産物問屋渡辺治右衛門(後の東京渡辺銀行の創設者)の四男でした。
このように、当時の鉄道趣味は財力に余裕のある比較的上流の階層の一部の趣味であったことが窺えます。
彼らの撮影させた鉄道写真のコレクションは、貴重な資料として現在も鉄道博物館で保存されています。
その後、経済発展と鉄道網の発達と共に、鉄道趣味に関心を持つ人々は次第に増えていきました。
1921(大正10)年10月に、日本初の鉄道博物館が東京に開かれました。
1929(昭和4)年5月には、日本で最初の鉄道趣味雑誌である『鉄道』が創刊され、鉄道趣味の同好者の間での情報交換や交流も行われるようになっていきました。
1933(昭和8)年には2番目の鉄道雑誌である『鉄道趣味』誌も創刊されるなど、当時すでに一定量の鉄道趣味を持った人々が存在していたことがわかります。
また、この両誌が1937(昭和12)年に廃刊となった後は、各地に作られた同好会が発行した会員制の雑誌である『つばめ』・『古典ロコ』が創刊されるなど、当時の鉄道趣味が強い情熱により支えられていたことがわかります。
しかしながら、戦時体制が次第に強まっていくに伴い、鉄道趣味にとっては冬の時代がやってきました。
1938年4月、「支那事変特別税法」(Ref.A02030064500)が制定され、列車の乗客には通行税が課せられることになりました。
また、この後たびたび鉄道運賃の値上げが行われ、鉄道旅行の足枷となっていきます。
画像2 「写真週報」291号(Ref.A06031088600)
1939年9月には、鉄道省令第17号として、「国有鉄道軍用資源秘密保護規則」が定められ、列車に関する諸元を記録することや、特定の場所での撮影が許可制となる等、軍事機密の保護のために鉄道趣味に対する締め付けが厳しくなってきました。
1942年10月になると、「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」という閣議決定が行われ、戦時輸送を優先するために、旅客輸送の抑制が目指されました。
そしてついに1944年3月、「決戦非常措置要綱ニ基ク旅客輸送制限ニ関スル件」(Ref.A14101254900)と題する閣議決定により、不要不急の旅行が制限され、100km以上の旅行に対して警察署の証明書が必要となり、また乗車券の販売枚数割当等も行われました。
このように、自由な旅行自体が制限されてしまったのでは、当然鉄道趣味は成り立たなくなります。
また、戦後に発行された同好会誌である『Romance Car』に掲載された記事によれば、実際にスパイと間違えられて連行され取り調べを受けた事実も存在していました。
1945(昭和20)年の終戦とともに、これらの制限は撤廃され、ようやく自由に鉄道趣味を謳歌できる時代がやってきました。
再び各地に鉄道同好会が作られ、東京鉄道同好会が発行した『Romance Car』や、関西鉄道同好会が発行した『Club Car』など多くの会員雑誌が作られました。
商業誌の方でも、戦後初の商業的な鉄道雑誌である『鉄道模型趣味』が1946(昭和21)年に創刊され、1951(昭和26)年には『鉄道ピクトリアル』誌が創刊されるなど、現在まで発行が続いている雑誌がこの時代に生まれました。
また、鉄道博物館に置かれていた交通科学研究会と、東京鉄道同好会が合流する形で、鉄道友の会が1953(昭和28)年に発足し、現在では全国的かつ日本最大の鉄道趣味団体となっています。
1961(昭和36)年には『鉄道ファン』誌、1967(昭和42)年には『鉄道ジャーナル』誌が創刊され、また1970年代のSLブームを受けて鉄道趣味人口は拡大し、多くの雑誌が創刊されました。
このように、鉄道趣味は現在では趣味界の大きな一つのジャンルとしてその地位を確立していると言えるでしょう。
戦後すぐに発行された『Romance Car』1号に掲載された、「いくらまじめな研究だと云って見ても脳味噌の違う人間に色眼鏡で見られたらおしまいである」という文言は、戦前の状況を回顧したものですが、現在でもなお様々な示唆を含んだ言葉であると言えるのではないでしょうか。