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女性のファッションの主流は、戦前が和服、戦中がモンペ、戦後が洋服でした。
ここでは、なぜ女性のファッションにこのような変化が生じたのか、またそれはどのようなスタイルだったのかについてご説明しましょう。
最初に洋服を身に着けた女性は、上流社会の貴婦人でした。
明治10年代後半、日本は欧化政策の推進に必死で取り組んでいました。
不平等条約の改正を実現するためには、日本が欧米並みの文明国であることを示す必要があったからです。
そこで、欧米風の社交施設として鹿鳴館を建設し、各国の外交官を招待して連日にわたり舞踏会を開きました。
もちろん、そこには招待者側の日本政府の高官も、婦人同伴で参加しました。
彼女たちには、国家的な使命が課せられていました。
洋服を着こなすのはもちろんのこと、マナーやエチケットをわきまえ、洋服を着こなし踊ることで、文明国の一員であることを証明しなければならなかったのです。
これが、洋服を着るようになったきっかけです。
しかし、明治20(1887)年頃には欧化政策の熱も冷め、男女ともに江戸時代のような和服が復活しました。
一部の上流婦人はS字カーブのシルエットのドレスを着用しましたが、一般女性は和服が圧倒的に多数派でした。
普段着として木綿製の紺絣や久留米絣、秩父縞(ちちぶじま)が、上等な着物として結城紬や銘仙が、晴れ着として御召縮緬が流行しました(※)。
※絣(かすり):先染めの糸で文様を織り出した着物
紬(つむぎ):真綿から紡いだ太くて節が多い紬糸による絹織物
銘仙(めいせん):絹糸を密な平織りにした光沢ある絹織物
御召縮緬(おめしちりめん):たて糸・よこ糸ともに強く撚りをかけて凹凸を織り出した最高級の絹織物
明治中期、女学生のファッションが注目を集めました。
束髪(そくはつ:西洋婦人の髪型をまねて前髪を高く膨らませた髪型)に矢絣の着物、そして海老茶袴(えびちゃばかま)という姿です。 のちに世界的オペラ歌手となった三浦環(みうらたまき)が、女学生時代にその姿で自転車を乗りこなした姿は、西洋風でしゃれた人=ハイカラの代名詞となりました。
以後、昭和期にセーラー服が普及するまで、これが女学生の定番スタイルでした。
いまでも女子大生が卒業式で袴を着用するのは、当時の人気をあやかっているのです。
大正後期、新たなファッションスタイルが登場します。
和服の主流は銘仙になり、大正緑や新勝色(しんかちいろ:紫みの青)、幾何学的なアールデコ模様などを取り入れるようになりました。
また、洋服も普及の兆しを見せます。
良家の子女や知識階級の婦人の間で、クロッシェ(つりがね型)帽、ボブヘア(おかっぱ頭)、いかり肩で胸のふくらみの少ないストレートラインのシルエット、ショート丈スカートという男の子のようなファッション(ギャルソンヌルック)が流行しました。
そして、銀座にはモガ(モダンガール)が、盛り場にはフラッパーが登場しました。 大阪のおばさんたちはアッパッパ(簡易服)と呼ばれるシンプルなワンピースを着用し、昭和前期には女性の室内着・普段着として一般化しました。
この簡易服が流行した背景は、大正12(1923)年9月1日に起きた関東大震災で、洋服の機能性が見直されたからといわれています。
また、女性の社会進出も、洋服の一般化を後押ししました。
バスの車掌(バスガール)、電話交換手などの制服や、カフェの女給の白いエプロン姿が人気を集めました。
ただし、大正14(1925)年の時点では、銀座通りを歩く男性の67%が洋服だった一方で、女性の洋服はわずか1%でした。
その後、洋服の割合は徐々に増えていきましたが、戦前はあくまでも少数派にとどまりました。
女性のファッションとして洋服が広まるにつれ、次第にそのスタイルも洗練されていきます。
昭和5(1930)年以降、女性らしさを強調したスリム&ロングドレスや、スカート、ファーつきコートが流行しました。
しかし、日中戦争で「贅沢(ぜいたく)は敵だ」がスローガンとされ、華やかなファッションが規制されていきます。
そして、戦時体制を特徴づける女性のファッションが登場します。
かっぽう着、モンペ、婦人標準服です。
画像2 「贅沢は敵だ」のスローガンを掲げるモンペ部隊の行進
写真週報139号 昭和15年10月23日号より(Ref.A06031073400)
画像3 防空活動で推奨された女性の服装(江戸東京博物館提供)
かっぽう着は、国防婦人会の正式な会服でした。
国防婦人会は、最盛期には一千万人にも及ぶ会員数を誇りました。
そのため、多くの女性がかっぽう着で兵士の送迎や留守家族の支援などに従事する姿は、社会現象となりました。
また、男性に国民服が制定されたのを機に、女性にも同様の服装が定められました。
厚生省が発表した、婦人標準服です。
しかし、婦人標準服は、ほとんど普及しませんでした。
空襲が始まると、みなモンペ姿に変わってしまったからです。
もともと東北の農山村の地方着だったモンペは、婦人標準服の活動衣として紹介されました。
胴回りと足首で絞ったズボンで、活動性に優れ、なおかつ製作が容易でした。
いざ空襲が始まると、活動性が何よりも重視されました。
そのために、正式な婦人標準服が広まる機会はほとんどありませんでした。
戦後は、極端な物資不足に見舞われました。
そのため、更生服と呼ぶ、手持ちの洋服や着物、生地を仕立て直した服を作りました。
洋裁ブームに火が付いたのも、こうした時代背景と無縁ではありません。
いかり肩でウェストを絞ったトップとセミ・フレアのスカートのボールドルックや、ウェストから一気に広がっていくアメリカンルックのAラインのワンピースが人気を集めました。
その後、ファッションの関心は、機能的なアメリカンルックからエレガントなパリ・モードへと移りました。
クリスチャン・ディオールのニュールックやアルフベット・ライン、ピエール・カルダンのサックドレスなどです。
戦後の洋裁ブーム、そして家庭用ミシンの普及によって、ファッションとしての洋服が定着しました。
特に若者たちは、パリ・モードだけでなく、独自のファッションスタイルを追求し、生み出していきます。
50年代のミッチールック、ロカビリーファッション、60年代のミニスカート、アイビールック、みゆき族、70年代のアンノン族、ニュートラ、ハマトラなどです。
こうして日本に洋服文化が根付いていきました。