アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第46号

2025年3月19日

特集(2)

<特集 日清講和条約130周年>日清の戦いの裏側—朝鮮に光をあてて

はじめに

2025年は、日清戦争の講和条約が結ばれてから130年の節目になります。アジ歴では、2015年に日清戦争開戦の120年の節目としてインターネット企画展「描かれた日清戦争 ~錦絵・年画と公文書~」を公開しましたが、本号のニューズレターでは、10年前の企画展では本格的にとりあげられなかった、いわば「描かれなかった」日清戦争の側面に光をあて、朝鮮の扱いをめぐる講和条約交渉の舞台裏と朝鮮半島における民衆蜂起、内政、日本の対応などの動きにフォーカスしてみたいと思います。

日清戦争は、1894年7月に勃発し、1895年4月に下関で講和に至った、朝鮮の支配権をめぐる日本と清国の戦いといえるでしょう。よく語られるように、日本がヨーロッパを模範とした規律的な軍隊を使い、黄海海戦などの大きな戦いで勝利をおさめ、「眠れる獅子」と呼ばれたアジアの大国を破ったことがこの戦争の表面だとすれば、裏面はどのようなものでしょうか。

日清戦争は、日本と清国との戦いでありながら、平壌、牙山、成歓など、朝鮮半島の多くの地で戦闘がおこなわれました。また、この戦争中には、朝鮮の西南地方で農民軍による対日蜂起が起き、中央政府では内政改革が進行していました。そして、戦争の帰結として、下関条約の第1条では「清国が朝鮮を『完全無欠なる独立自主の国』であると認めること」が定められました。

日清の戦いの裏側ともいえる朝鮮では何が起きていたのでしょうか。今年130年を迎えた日清講和条約から時代をさかのぼり、東アジアに大きな変動をもたらした日清戦争の背景と淵源に迫ります。

 

1.日清講和条約(下関条約)と日清戦争

1-1. 下関講和会議と日清講和条約(下関条約) 

今から130年前(1895年)の3月19日、李鴻章率いる清国の使節団が下関(当時は赤間関、赤馬関、馬関と呼ばれる)(地図)に到着しました(件名「李鴻章来朝」Ref.B06150070300、149画像目)。【画像1】は、伊藤博文内閣総理大臣らが下関港で李鴻章北洋通商大臣兼直隷総督ら清国の使節団を出迎えている様子を描いた年画になります。年画とは、旧正月を祝う飾り絵で、本来はおめでたいものを描いていましたが、やがて多様な題材を扱うようになりました。清代末頃になると戦争なども題材として扱われるようになり、その中には日清戦争を描いたものも少なくありませんでした。日清戦争関係をテーマにした年画であるこの絵画の中には、伊藤首相ら日本側の人員と李鴻章ら中国側の人員とでは着ている服装が異なり、両者の見分けがつくように描かれています。また図中の上段には各国旗が記されています。

【画像1】「迎迓李傅相前図」(1895、清国)(大英図書館請求記号:16126.d.2(10) )【画像1】「迎迓李傅相前図」(1895、清国)(大英図書館請求記号:16126.d.2(10) )この年画の中に書かれた文字では、日本と中国との戦争がはじまり1年が過ぎ、西洋諸国から清朝に対して講和交渉のために日本に行ってほしいという要請が来た結果、李鴻章が日本に赴き、それを伊藤博文らが出迎えたとあります。

 

下関講和会議は李鴻章が到着した翌日の3月20日から始まりました。この講和会議は下関にある春帆楼という割烹旅館で行われました。日本の全権委員(全権弁理大臣)は伊藤博文首相と陸奥宗光外相であり、清国の全権委員は欽差頭等全権大臣の李鴻章(北洋通商大臣兼直隷総督)と欽差全権大臣の李経方(元駐日本公使)でした。この会議で日清戦争の講和交渉が行われることになりました。日清戦争の発端は朝鮮をめぐる対立であったため、講和には朝鮮に関する部分が多く含まれました。

実は、日清両国は下関で行われる講和会議の前から講和に向けたやりとりをしていました。まず清国は1月31日に日本側の大本営があった広島に2名の清国の使節を派遣しました。しかし、この使節は日本側に正式な全権使節と認められず、講和交渉に至ることができませんでした。3月の李鴻章らの下関来訪までのやりとりの様子は、陸奥外相が書いた外交記録である『蹇蹇録』「けんけんろく」(簿冊『蹇蹇録』(Ref.B03030022400))にも描かれています。【画像2】は、『蹇蹇録』の中にある2月17日に米国公使経由で清国政府におこなった通告の概要を述べた部分です。

「日本国政府ハ清国ニテ軍費賠償及朝鮮国独立ヲ確認スル外ニ戦争ノ結果トシテ土地ヲ割譲シ及将来ノ交際ヲ律スル爲メ確然タル条約ヲ締結スルコトヲ基礎トシ談判シ得ベキ」と記されていることから、朝鮮の独立の確認と清朝による戦費賠償が講和交渉の前提にあるという日本側の認識がわかります。そのうえで、正式な全権使節の派遣を求めています。

【画像2】件名「第十七章 下ノ関談判(上)」(Ref.B03030024500、2画像目)

【画像2】件名「第十七章 下ノ関談判(上)」(Ref.B03030024500、2画像目)

後述しますが、2月17日に威海衛が陥落し、戦況が厳しくなった清国は、李鴻章と李経方を全権委員に任命しました。全権委員に任命された李鴻章らは日本を訪問し、講和会議に参加します。実際の会議は3月20日から下関で、全部で7回行われます(【画像3】)。3月20日の第1回会議で、双方の全権委任状の内容などを確認しあったあと、翌21日の第2回会議で休戦についての話し合いがおこなわれました。【画像4】は、講和会議の前半部分の記録の中にある第2回会議での李鴻章の発言です。この会見記録では、いずれも発言者と発言内容が詳しく記されており、交渉の様子をうかがうことができます。

これによると、李鴻章は「元来今回ノ交戦ハ事端ヲ朝鮮ニ発ス。而シテ朝鮮ハ業已ニ貴軍ノ占領スル所トナリ、今ヤ進テ我満洲ヲ蹂躙セラレ、我ハ陸海共ニ大敗ヲ受ケテ、茲ニ和議ヲ乞フコトトナレリ、閣下疇昔ヲ回想シ、我ノ誠実ヲ熟察シテ一層寛洪ナル処分法ヲ考慮セラレンコトヲ望ム」と語っています。日清間の戦争の発端は朝鮮をめぐるものでしたが、朝鮮はすでに日本軍によって占領されており、その戦火は清国内に拡大し、戦闘で清軍が敗北しているという認識を示しています。

【画像3】「各国欽差会同李傅相議和図」(清国)大英図書館請求記号: 16126.d.2(14))これは、下関講和会議の様子を描いた清国で作成された年画です。しかし、伊藤博文と李鴻章の前で、3月24日に李鴻章を銃撃した小山豊太郎(六之助)が跪いており、また会議の場に朝鮮、アメリカ、イギリスなどの各国の代表も出席しているなど、実際の講和会議の様子とは異なると思われる点が見られます。

 

【画像4】件名「分割1」(Ref.B06150073200、39~40画像目)

【画像4】件名「分割1」(Ref.B06150073200、39~40画像目)

 

これに続く3月24日におこなわれた第3回会議後に、李鴻章は宿泊先の引接寺に帰る道中で小山豊太郎による銃撃を受けて負傷しました(件名「李鴻章遭難」Ref.B06150070400、2画像目)。日本側では、この事件に対する各国の感情を考慮し、清国側の希望に応じて休戦条約を先行して締結すべきという議論も起こりました。そうした影響も受け、1895年3月30日に日清休戦条約が締結されました(件名「調印書」Ref.B13090893100)。休戦条約締結後の4月1日から第4回会議として講和会議が再開され、負傷した李鴻章にかわって李経方が清国側の代表として出席していましたが、4月10日の第5回会議からは李鴻章も交渉に復帰しました。4月16日の第6回会議では、清朝側が反発して懸案だった台湾(地図)と澎湖諸島(地図)の割譲も「講和条約の第2条第2項」(台湾島と附属島嶼の割譲)の実施に関する特別取極書として交わされることになりました(日清講和条約締結一件/会見要録:件名「分割2」Ref.B06150073300、72~74画像目)。こうした交渉の結果、4月17日の第7回会議で日清講和条約(下関条約)が両国の全権委員により締結されました(【画像5~7】)。

【画像5~7】件名「御御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両国媾和条約及別約」(Ref.A03020213100、2~3画像目と15画像目)。この画像は、下関条約の御署名原本の御署名箇所と全権委員の署名入りの箇所になります。

 

【画像8】の条文の第1条では、「清国ノ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」とあります。ここで、朝鮮の清国からの独立を清国が承認することを明記しています(いわゆる朝鮮の宗主権放棄)。また漢文で書かれた条約文でも、朝鮮の清国からの独立自主の規定であり、日本語文と漢文ともに同じ内容が書かれています(件名「調印書(附属地図あり)」Ref.B13090893700、20画像目)。

【画像8】件名「御御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両国媾和条約及別約」(Ref.A03020213100、4画像目)【画像8】件名「御御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両国媾和条約及別約」(Ref.A03020213100、4画像目)

 

1-2. 日清戦争(日清戦役、明治二十七八年戦役)

それでは、下関条約の締結に至るまでの日本と清国との戦争はどのような展開をたどったのでしょうか。ここでは戦争の舞台として、朝鮮での戦闘を中心に見ていきます(年表)。1894年7月25日、日本と清国の艦隊が朝鮮半島の仁川沖の豊島付近(地図)で遭遇し、双方の間で砲撃戦が引き起こされました(豊島沖海戦)。この海戦では、豊島沖で清国の兵士を輸送していたイギリス船籍の商船「高陞こうしょう号」が日本艦隊によって撃沈される事件が発生しました。いわゆる「高陞号事件」です。(件名「高陞号事件報告/1894年」Ref.B10070276100)。

 

【画像9】「朝鮮豊島沖海戦之図」(日本)大英図書館請求記号: 16126.d.2(76)

【画像9】「朝鮮豊島沖海戦之図」(日本)大英図書館請求記号: 16126.d.2(76)。この錦絵は、豊島沖で清国の兵士を輸送していたイギリス船籍の商船「高陞号」が日本艦隊によって撃沈される様子を描いたものです。

 

【画像10~12】は、7月27日と28日に、陸軍の柴五郎中尉が釜山から本国の大本営(の参謀総長宛)に送った電文です。ここでは、25日の朝に起こった海戦で日本軍が勝利したとの報告を受けたことと、海戦の状況を伝えています。

【画像画像10~12】件名「豊島沖海戦の報告 柴中尉、明治27年自7月至12月」(Ref.C06061829100、1~3画像目)

 

朝鮮半島沖を舞台にした海戦に続いて、7月29日、朝鮮の牙山(地図)にあった清国軍の拠点の攻撃に向かう日本軍と成歓駅付近に陣営を構えていた清国軍との間で、日清戦争最初の陸戦が発生しました(件名「混成旅団報告第21号 混成旅団戦闘詳報」Ref.C06060164900、【画像13】)。【画像14~15】の成歓駅付近の地形を示した図から、日本軍の動きや清国軍の陣営の位置を知ることができます。

【画像13】「牙山追撃日清両軍成歓大激戦之図」(日本)大英図書館請求記号: 16126.d.1(13)【画像13】「牙山追撃日清両軍成歓大激戦之図」(日本 )大英図書館請求記号: 16126.d.1(13) この錦絵は、成歓での戦闘が描かれたものです。

 

【画像14~15】件名「7月29日 成歓駅付近戦闘略図」(Ref.C06062139600、2~3画像目)

 

日本軍は成歓(朝鮮忠清道、現忠清南道・天安市付近)(地図)を陥落させたあと、すぐに牙山に進みましたが、牙山にいた清国側の部隊が不利な地形を避けて移動した後でした。この戦闘後の8月1日に日清両国がそれぞれ宣戦布告し、正式に日清戦争が開戦しました。【画像16~17】と【画像18】は日清両国による宣戦布告文になります。両者ともに発端となる朝鮮とそこで起きた蜂起について書かれています。【画像16~17】では、日本は独立した国家である朝鮮に対する清国の内政干渉を非難し、朝鮮の独立を確保するために戦うと宣言しています。

【画像16】件名「御署名原本・明治二十七年・詔勅八月一日・清国ニ対シ宣戦」(Ref:A03020165600、2画像目)【画像16】

【画像17】件名「御署名原本・明治二十七年・詔勅八月一日・清国ニ対シ宣戦」(Ref:A03020165600、4画像目)【画像17】

【画像16~17】件名「御署名原本・明治二十七年・詔勅八月一日・清国ニ対シ宣戦」(Ref:A03020165600、2~4画像目)

 

【画像18】件名「日清両国宣戦ノ詔勅公布一件」(Ref.B07090537400、9画像目)【画像18】件名「日清両国宣戦ノ詔勅公布一件」(Ref.B07090537400、9画像目)清国による宣戦詔書です。

 

9月15日未明に、清国軍が集結していた平壌(地図)を包囲した日本軍が総攻撃を開始しました。この戦闘は日清戦争最初の大規模な陸戦となりました(【画像19】)。同日夕刻には清国軍が降伏を申し出て脱出していき、翌日16日未明にかけて日本軍が平壌への入城を進めました。

【画像19】「平壌夜戦我兵大勝利」(日本)大英図書館請求記号:16126.d.2(71)【画像19】「平壌夜戦我兵大勝利」(日本)大英図書館請求記号:16126.d.2(71) この錦絵では、平壌の夜戦の様子が描かれています。

 

日清戦争は朝鮮の支配をめぐる日清間の戦争ともいえますが、成歓や平壌といった朝鮮半島を舞台とした陸戦の事例を見てきたとおり、当初の戦場は朝鮮半島でした。この後、戦争の舞台は清国の国内へと移っていきました。9月17日、日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊が黄海の鴨緑江沖(大孤山沖と書かれることもあります)(地図)で遭遇し、黄海海戦が発生しました。この戦闘では日清双方で大きな損害を出しましたが、特に失われた清国の艦船やその乗組員の数が甚大でした(件名「9月19日 大同江口にて 伊東連合艦隊司令長官から」Ref.C06061781100、1~4画像目)。日清両軍は、11月21日には清国の北洋艦隊の拠点であった旅順(地図)で3日間にわたる激しい戦闘を行いました(旅順口の戦い)。その末に、旅順を占領しました(件名「臨時攻城廠 明治27年11月21日に於る戦闘詳報第1号」Ref.C13110344300)。旅順に続いて、1895年2月17日には威海衛(地図)も陥落しました(件名「陸参第214号2月7日 我軍は威海衛及南岸の砲台は抵抗なく略取せり 其の他 東條中佐」Ref.C06061919800)。

先に紹介したように、日清間の戦闘がまだ続いている中で1月末の広島への清国の使節派遣から講和へ向けた日清双方の交渉が行われていきました。その結果、3月30日の日清休戦条約の締結、4月17日の下関条約の締結によって、日清間の戦争は終わりを告げました。

こうして、下関条約第1条で戦争の発端であった朝鮮の独立が承認されたうえで、日本は遼東半島や台湾と澎湖諸島を割譲することになりました。次章では、この日清戦争が何をきっかけにして、どのように始まったのかについて見ていきましょう。

 

2.日清戦争と朝鮮

2-1. 朝鮮農民の蜂起「甲午農民戦争」

日清戦争では両国が激しくぶつかり合いましたが、開戦のきっかけは朝鮮の社会混乱にありました。

1894年2月、朝鮮半島の西南地方の全羅道古阜で民衆蜂起が起きました。蜂起に参加した人々の多くが「東学」という宗教の信徒だったことから「東学党の乱」とも呼ばれます。現在では、東学信徒に限らず多くの農民が参加し、武装叛乱が広がったことから甲午農民戦争と呼ばれています。

最初に蜂起が起きた古阜では地方官の専横により、人々が困窮していました。蜂起を主導した全琫準(チョン・ボンジュン)は、地方官を追い出し、奪われていた米を民衆に配りましたが、朝鮮政府は蜂起参加者に厳しくあたったため、東学の徒を中心とした農民軍の叛乱が広がるようになりました。

古阜の農民軍は、全羅道の地方軍や派遣された政府軍を破り、5月末には首府の全州(地図)を占領しました(年表)。【画像20】は、海軍省の戦史編纂のための準備資料として集められたもののひとつです。全州観察使(地方行政を監督する朝鮮の役人)からの報告とされる資料で、農民軍の全州入りを伝えています。この勢いに対して、朝鮮政府が清国に兵の派遣を依頼すると、日本も居留民保護と公使館警護を理由として派兵を決定しました。

【画像20】件名「明治27年6月2日 東学党乱況報告」_Ref_C08040589200【画像20】件名「明治27年6月2日 東学党乱況報告」。文中には「昨日午前十時東徒数万城中[全州城]ニ乱入発砲放火城中空虚ト為ル」とあります。(Ref: C08040589200、1画像目)

 

日清両軍の派兵を知った農民軍は、6月11日に朝鮮政府と和約をおこないます。和約をもって、朝鮮政府は清国と日本に撤兵を求め、交渉が始まりました。

しかし、朝鮮の支配権をねらう両国の撤兵交渉は難航し、6月下旬には、朝鮮に集結した兵員は、清軍2,800名、日本軍8,000名にのぼっていました。

このとき、日本は清国に、朝鮮の民乱を鎮圧することと、鎮圧後も撤兵せずに朝鮮政府の内政改革(財政・人事・軍事等)を共同でおこなうことを提案しますが、宗主国を自認する清国はこれを拒否します。これを受けて、日本は単独での内政改革案として、中央・地方政府の改革、財政整理、法整備など広範囲にわたる提案を朝鮮政府に示し、他方で、日朝修好条規の文言をもちだして清国との宗属関係を見直すよう問いただしました。さらに、7月20日には、最後通告として「清国との宗属関係(清を宗主国、朝鮮を属国とする関係)を破棄すること、清軍を撤兵させること」を朝鮮政府に求めました。【画像21】は、日本による内政改革案に対する朝鮮側の反応を記したものです。

【画像21】件名「4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」_Ref_B03050308400【画像21】件名「4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」文中では日本の改革案に対する朝鮮側の反応として「先ず衛兵を撤退させ且つ乙号案[即期限を立て実行を促すもの]を御繳回(戻すこと)されたし」とあり、内政改革より先に撤兵を求めています。(Ref.B03050308400、50画像目)

 

3日後の7月23日、朝鮮側から満足な回答を得られなかったとして、日本は軍の一個連隊をもって王宮(景福宮) (地図)を占領し、閔氏政権を倒して新たな朝鮮政府を擁立しました。さらに、朝鮮の新政府より、清軍を撤退させてほしいとの要請を取りつけると、7月25日、日本は、朝鮮半島西岸の豊島沖で清国の艦隊と激しい撃ちあいを始めました。【画像22】と【画像23】は、この様子を描いた年画と錦絵で、清国と日本でそれぞれ作成されたものです。

【画像22】「牙山大捷圖/倭奴佔踞韓京圖」(清国)【画像22】「牙山大捷圖/倭奴佔踞韓京圖」(清国)大英図書館請求記号: 16126.d.4(33)
清国で作られた年画。右上に牙山の戦い、左下に景福宮占拠の様子を描き、時間と場所が異なるできごとを一枚の飾り絵に仕立てています。

 

【画像23】「朝鮮異聞: 小戦の顛末」(日本)【画像23】「朝鮮異聞: 小戦の顛末」(日本)大英図書館請求記号: 16126.d.2(92)
日本で作成された錦絵で、景福宮占拠の際の王宮守備兵と日本軍との衝突の場面。中央右に公使の大鳥圭介、中央左に国王高宗の生父である大院君が配置され、二人が王宮に向かっている姿が活劇的に描かれています。

 

一時は朝鮮政府と和議を結んだ農民たちは、日本による王宮占領事件から少しずつ活動を再開します。日清戦争の当初、日本軍は釜山に上陸すると、洛東江沿いに北上し、仁川(地図)まで兵站線を延ばしていました。軍用道路や軍用電信線が敷かれるなか、朝鮮民衆は入り込んできた日本軍に対して抵抗するようになります。【画像24】は抵抗活動が広がっていることを知らせる、京城の内田定槌二等領事から林董外務次官に宛てた1894年8月30日の電文です。

【画像24】件名「分割3」_Ref_B08090159000【画像24】件名「分割3」文中には「目下慶尚道地方ニモ同党(東学党)処々ニ出没シ釜山ヨリ陸路京城ニ進軍スル我軍隊ノ通行ニ対シ人馬雇用上妨害ヲ与フルコト少カラザル趣」とあり、農民軍の抵抗の様子が記されています(Ref:B08090159000、1画像目)。

 

そして、10月半ばには農民軍が再蜂起し、鎮圧にあたる日本軍と朝鮮政府軍を相手として、各地で衝突するようになりました。

 

農民軍が拡大化する一方、日本軍は兵員が足りず、数度にわたって増援を要請しました。はじめ、川上操六兵站総監は漢城(ソウル)守備隊の一部を派遣するだけにとどめていました。外国の動向から漢城の守りを手薄にすることはできませんでした。しかし、農民軍による度重なる電信線や電柱の切断は、日清戦争の遂行に打撃となるものでした。10月27日、川上兵站総監は「東学党ニ対スル処置ハ厳烈ナルヲ要ス」と決定します。これ以降、大本営から増派された日本軍に応援の朝鮮政府軍を加えた合同軍は、農民軍に対して本格的な作戦を仕掛けていくようになりました。【画像25】は、井上馨公使から伊藤博文総理大臣へ宛てた兵員の至急増派を依頼した電信です。外務大臣を飛び越えて、総理大臣へ直接電信を送るのは異例のことでした。

その後、農民軍は11月から12月にかけて苛烈な戦闘を交えながら敗走を続けました。1895年春には、朝鮮半島の西南方面に追い詰められて農民軍は壊滅し、指導者の全琫準も捕えられました。

【画像25】件名「電信訳文 10月27日午後6時50分京城発 10月28日午前7時釜山発10月28日正午接」_Ref_C08040505400_03【画像25】件名「電信訳文 10月27日午後6時50分京城発 10月28日午前7時釜山発10月28日正午接」井上公使から鍋嶋書記官への電信、2~3枚目で「今ニ方テ東学党ヲ討チ平ゲルコト肝要ナリ、何時頃右五中隊ハ派遣サルルコト出来ルヤ」と至急の増援を依頼しています。鍋嶋書記官は伊藤総理大臣への電報を仲介していました(Ref.C08040505400、1~3画像目)。

 

2-2. 朝鮮政府の内政改革「甲午改革」

この戦乱の一方で、中央の朝鮮政府では内政改革が進行していました。現在では、この内政改革は「甲午改革」と呼ばれており、日本の関与を背景にした近代化政策のひとつです。

すでに日清開戦前夜、日本軍は朝鮮王宮を占拠しており、閔氏政権が倒れたあとの朝鮮政府には親日開化派の金弘集(キム・ホンジプ)を中心とした政権が誕生していました。8月20日には「日朝暫定合同条款」「大日本大朝鮮両国盟約」が締結され、これに基づき、日本は朝鮮に対し「内政改革の勧告」が可能になり、朝鮮政府には日本軍への協力が義務付けられました。【画像26】は「日朝暫定合同条款」です。

【画像26】件名「日本、朝鮮両国間暫定合同条欸」_Ref_B13091011600【画像26】件名「日本、朝鮮両国間暫定合同条欸」(Ref.B13091011600、3画像目)条約は漢文と和文の一綴ずつで構成されています。

 

発足直後から金弘集政権は行政改革(宮中と政府の分離、科挙廃止等)、財政改革(税目の整理統合と金納化等)など広く改革を断行しましたが、それは日本との色濃い関係を背景に進められました。10月25日には、井上馨が日本公使として大鳥圭介公使と交替すると、すぐに、朝鮮政府内で日本人顧問の採用が始まりました。1895年3月には井上公使の建議により、日本は朝鮮に300万円の借款を供与し、財政的にも深く関わるようになりました。【画像27】は大鳥圭介から井上馨へ公使が交替する上奏文です。

【画像27】件名「朝鮮国駐剳特命全権公使伯爵井上馨ヘ御信任状同特命全権公使大鳥圭介ヘ御解任状御下付ノ件」_Ref_A04010010300【画像27】件名「朝鮮国駐剳特命全権公使伯爵井上馨ヘ御信任状同特命全権公使大鳥圭介ヘ御解任状御下付ノ件」(Ref:A04010010300、1画像目)

 

その最中、改革においては、清国の年号使用の廃止や朝鮮王室の尊称の改定が進められました。王を「陛下」、王妃を「王后陛下」とし、清国の皇帝・皇后と同格になったことを示すことで、清国と朝鮮の宗属関係の破棄へ向かっていきました。下関条約の第1条はこれを公式に清国に認めさせたものです。

 

おわりに

今回の「特集」では、日清戦争のなかの朝鮮にフォーカスし、朝鮮内の戦闘や、この戦争の裏面で展開した農民軍による蜂起と朝鮮政府の内政改革を紹介しました。農民軍の蜂起は日清戦争のきっかけであると同時に、日本と清国の戦争の裏面で広がり続けた戦いでもありました。また、甲午改革によって進んだ内政改革の結果、朝鮮は清国との宗族関係の破棄に至り、日本の朝鮮政府への関与は深まっていきました。

日清戦争は、日本史の側面から見ると、勝利によって大陸への足掛かりをつかんだことや、賠償金によって国内産業の礎を築いたことから「輝ける近代日本の出発点」として語られることも多いですが、清国や朝鮮にとってはまた異なる画期となりました。東アジア世界における軍事と政治の構図を変えた点においても、日清戦争は新しい時代の出発点となったのです。

 

※資料の引用に際しては、読みやすさを考慮して旧字の置き換えや句読点の追加など適宜表記を改めた部分がある。

 

〈アジア歴史資料センター調査員 矢久保典良、齊藤涼子〉