アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第45号

2024年12月26日

特集

波多野澄雄センター長寄稿「外務省提供の「戦後外交記録」の紹介(1)」

アジア歴史資料センター長 波多野澄雄

【はじめに】

アジ歴は、利用者や学界の強い要望を踏まえ、外務省外交史料館および国立公文書館の協力を得て、2016(平成28)年度から戦後期の外交記録や行政文書のデジタル化画像の提供を受け、内外に広く公開している。それらは具体的にどのような資料なのか、問い合わせも多くなっている。そこでまず、外交史料館から提供された「戦後外交記録」について、その概要を数回に分けて紹介することにしたい。

アジ歴に提供される「戦後外交記録」とは、公開済の外交記録のうち、おおむね終戦から1972年の日中国交正常化と沖縄返還までを時期的範囲とし、かつ、アジ歴の設立趣旨に照らして「アジア歴史資料(注1)」の範疇に含まれる記録類を指している。

この基準に当てはまる公開済みの外交記録は、原則として外交史料館で閲覧することができるが、アジ歴提供にあたっては、改めて外務省内の審査選別を経て、順次、アジ歴データベースに搭載される。したがって、外交史料館で閲覧可能な外交記録が、自動的にアジ歴を通じて閲覧できるわけではない。

アジ歴では、提供された外交記録のデータベース化にあたって、利用者の利便性を考慮し、アジ歴特有の検索システム(たとえば先頭300文字のテキスト化など)に基づいて、より詳細な検索情報を付したうえで広く提供している。

アジ歴に提供された戦後外交記録の概要の紹介にあたって,まず、外務省における外交記録の公開のあり方について簡単に説明しておく。

【1】戦後外交記録公開の仕組み

現在、外務省は大別して3つの方法によって戦後外交記録の公開を行っている。

第1は、国際標準である「30年公開ルール」に基づき1976年から実施している「自主公開」である。当時は行政サービスの一環として他省庁に先駆けた自主的措置であったが、戦前期も外務省は外交記録の公開に積極的に取り組んでおり、その伝統を引き継いだものでもあった。

この「自主公開」は、現在では行政サービスの段階から、公文書管理法(公文書等の管理に関する法律、2011年施行)のもとでの公開に移行している。この間、外務省は2010年には、取得や作成から30年を経過した記録類は「原則として公開」との規則を制定し、その運用の手順も定め、省内審査の終わった記録類を順次、外交史料館に移管して公開している。

第2は、情報公開法(行政機関の保有する情報の公開に関する法律、2001年施行)のもとで、作成・取得から30年を経過しない記録類であっても個人や団体による情報公開請求に応じて審査のうえ開示し、閲覧・利用に供する方法である。従って、「30年公開ルール」によって公開された外交記録類が、すべて新規公開というわけではなく、すでに開示済みとなっている場合も少なくない。

第3は、公開済みの記録類を『日本外交文書』として編纂刊行する方法である。戦前の1936年から続いているこの事業は、1945年までの戦前期分の刊行と並行して2006年から『サンフランシスコ平和条約』(3冊)の刊行を開始し、戦後期の本格的な編纂・刊行の第一歩を踏み出した。戦後期の編纂の重要な契機となったのが、2001年から翌年にかけて、情報公開法に基づく利用請求によって「平和条約の締結に関する調書」が開示されたことにあった。この調書は良く知られているように、サンフランシスコ平和条約の締結前後に条約局長であった故・西村熊雄氏が、退官後に自らの手で関連記録をまとめたものである。

その後、戦後期の『日本外交文書』の編纂・刊行は順調に進み、現在までに21冊(戦前期から通算して229冊)を刊行している(注2)。

 以上3つの方法によって公開された戦後外交記録のうち、デジタル化したうえアジ歴に提供されているのは、第1の手順によって公開された記録類である。

【2】戦後外交記録の概要

さて、外務省提供の『戦後外交記録』目録は、該当するすべての提供記録を主要な案件毎に大きく区分し、ファイル(簿冊)毎に外務省外交資料館における「分類番号」、「史料件名」(アジ歴における「簿冊標題」)、「アジ歴レファレンスコード」、ファイルに含まれる文書の開始日と終了日を明記したものである。

今回から数回に分けて、この目録の区分に従って記録内容の一部を紹介してみたい。

 

Ⅰ.ポツダム宣言受諾関係

「ポツダム宣言受諾関係一件」と題する大量の簿冊の内容は、大きく2つに分けることができる。

〔ポツダム宣言と外務省〕

降伏勧告としてのポツダム宣言の解釈や対応をめぐる外務省幹部の考え方や行動を示す文書類である【画像1】。

【画像1】_附一_米英支_ポツダム宣言の検討_Ref_B18090000800_2.jpg

【画像1】件名「(附一)米英支、ポツダム宣言の検討」(Ref.B18090000800、2画像目)

 

外務省幹部や東郷茂徳外相は、ポツダム宣言の原則的受諾に一致するのに時間を要しなかった。その根拠は、「無条件降伏」は日本軍隊に限定され、「有条件講和」の申し出と理解できること、天皇制についても、「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府」が樹立されるならば占領軍は撤収するという原則(第12項)は、天皇制を否定するものではない、と考えられること、などであった。

しかし、東郷外相らは、当面は意思表示をしないことを意味する「ノーコメント」で押し通すことが賢明と判断し、これが外務省や鈴木貫太郎首相の方針となる。当時、日本政府は、和平仲介を期待して特使派遣をソ連に打診中であったからである。しかし、「ノーコメント」の方針を貫徹できず、鈴木首相は28日午後の記者会見で「政府としては何ら重大な価値あるものとは思はない、ただ黙殺するのみである」と発言してしまう。この「黙殺」発言は、事実上の「拒否」回答であり、戦争継続の意思表示として連合国側に受けとめられ、原爆投下の口実の1つとなったとされる。

この間、モスクワの佐藤尚武大使は、米英の無条件降伏の緩和はあり得ず、特使派遣も無意味であることを再三、東郷宛に打電していた。その一方、ソ連がポツダム宣言に加わっていなかったことが、ソ連の好意的態度の獲得や特使派遣への過剰な期待につながっていた。

【画像2】_鈴木首相_東郷外相_佐藤大使.jpg

【画像2】鈴木貫太郎首相(左)、東郷茂徳外相(中)、佐藤尚武駐ソ大使(右) 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)、アジ歴にて一部編集

 

「黙殺」発言の経緯を含め、ポツダム宣言の受諾に至る政治過程を知るためには、他の資料や文献をあたる必要がある。とくに、8月以降、原爆投下やソ連参戦をはさんで8月14日の二度目の「聖断」までの重大な時期に、政府や軍の指導者はどのように考え、どのように行動したのか、といった問題を深く知るためには、外務省記録だけでは不十分である。

また、「ポツダム宣言受諾関係一件」と名付けられた簿冊群のうちの1つである「ポツダム宣言受諾関係一件 第3巻(終戦関係調書)」(Ref. B18090003900)には、米国の統治制度の改革の方向を見通しつつ、日本側の「自発的」意思によって諸改革を実施する必要性を説いた「26.自主的即決的施策ノ緊急樹立ニ関スル件(試案)(20.10.9)」(Ref. B18090006700)など興味深い資料が含まれているが、詳しくは別の回に憲法改正との関連で紹介することにしたい。

〔アジア各地の終戦〕

アジア太平洋各地の在外公館がもたらす情報から、終戦前後の現地の混沌とした状況を伝える電報類や書類である。

マッカーサー司令部から8月20日に手交された一般命令第一号(後述)は、内地、外地を問わず全ての軍隊について、一律に戦闘停止と武装解除を命じ、地域の特殊事情には配慮していなかった。

【画像3】_日本政府大本営発、連合国最高司令部宛電信_自昭和二〇年八月_Re_.B18090011000_19.jpg

【画像3】件名「(2)日本政府大本営発、連合国最高司令部宛電信 自昭和二〇年八月」(Ref. B18090011000、19画像目)

 

しかし、千島列島、樺太、満洲においては、なお激しい戦闘が断続的に続いた。たとえば、8月18日にはソ連軍が千島列島の占守島に上陸しており、日本側は「我軍は自衛の為武力に訴ふるを余儀なくせられあり。既に双方の敵対行為禁止せられ居るを以て右敵対行為の早急終息切望に堪えず」と訴える電報を連合国最高司令部に送っている【画像3】(大本営發聯合軍最高司令部宛(第十二号):件名「(2)日本政府大本営発、連合国最高司令部宛電信 自昭和二〇年八月」(Ref. B18090011000、19画像目))。

中国大陸では、日本軍の占拠地域に国民党軍と共産党軍が争って進出し、無統制に武装解除を要求するという事態となり、「局地停戦交渉」と武装解除の「自主的決定」が必要とされた。この切実な要望は降伏調印前の「事前了解取付事項」として連合国側に伝えられた(聯合國最高司令官ニ對スル事前了解取付事項:件名「(3)終戦処理一般事項(八.一四詔書、八.一七陸海軍に賜りたる詔書英訳文をふくむ。) 本冊(9)参照のこと。 自昭和二〇年八月」(Ref. B18090012400、22~25画像目)など)。

アジア全般の終戦状況は、「昭和二十年九月二十八日 同盟通信ニ依ル“東亜各地ノ終戦處理状況”」(件名:「(3)終戦処理一般事項(八.一四詔書、八.一七陸海軍に賜りたる詔書英訳文をふくむ。) 本冊(9)参照のこと。 自昭和二〇年八月」(Ref. B18090012400、60~68画像目))に整理されているが、各地域における邦人社会の混乱、狼狽、災厄はそれぞれ異なる状況にあり、引揚げも容易ではなかった。たとえば、「満洲国の終焉と在満邦人の状況」(件名「1.満洲 自昭和20年8月」(B18090018500、5~6画像目))の第二節【画像4】は、ソ連侵攻の直後に緊急疎開を命じられた長春の15万人の邦人が長春駅に殺到し、「八月十一日から数日間の長春駅の混乱は想像を絶するものがあり、僅にリュックサック一個を背負った老若男女は、一列車二、〇〇〇人ないし三、〇〇〇人立錐の余地なく、無蓋車に詰め込まれ・・・」という状況を伝え、「緊急疎開であったため、老人幼児病弱者等は、多く死亡し又は死亡の原因を作った」と総括している。

【画像4】_1_満洲_自昭和20年8月_B18090018500_5_6.jpg

【画像4】件名「1.満洲 自昭和20年8月」(Ref. B18090018500、5~6画像目)、赤線囲みはアジ歴による

 

Ⅱ 連合軍の本土進駐及び軍政関係

〔降伏文書の受理〕

ポツダム宣言受諾直後の8月16日、連合国軍最高司令官(SCAP)に任命されたダグラス・マッカーサー元帥は、スイス政府を通じて、日本政府を代表する「使者」をマニラに派遣するよう要求した。日本政府は、「使者」の任務が降伏調印にあるのか、その事前協議にあるのか判然としなかったが、まもなく進駐要領の打ち合わせが主たる任務であることが明らかとなり、河辺虎四郎参謀次長(陸軍中将)を代表とする使節団を派遣した。

河辺使節団は8月20日、詳細な進駐要領のほか①天皇布告文、②降伏文書、③一般命令第一号の3文書を手交され持ち帰った。①は、天皇がポツダム宣言の諸条件を受諾し、天皇の名において大本営および日本政府の代表者に降伏文書への署名を命じるもので、降伏調印と同時に詔書として公布される。

②の降伏文書は「日本の支配下にある全軍隊の無条件降伏」を定め、天皇と日本政府の統治権限は、降伏条項の実施のため連合国総司令官の「制限を受ける」と規定していた。③は日本軍の戦闘停止と武装解除、外地における日本軍の降伏相手先を規定していた。

【画像5】_詔書_降伏文書及び一般命令第一号_自昭和二〇年八月_Ref_B18090009300_27.jpg

【画像5】件名「(2)詔書、降伏文書及び一般命令第一号 自昭和二〇年八月」(Ref.B18090009300、27画像目)、赤線はアジ歴による

 

降伏文書を「我方全権が署名し、先方が受諾する」という形の「一種の国際約束」とみなす外務省は、国際条約であれば、全権の署名前に枢密院の諮詢(しじゅん)という手続きが必要であるとしていたが【画像5】、結局、ポツダム宣言受諾の際と同じく諮詢は省略され、事後承諾となった。

3文書に対する修正要求は8月30日の岡崎・マッカーサー会談【画像6】にまとめて提出されている(件名「1.連合国最高司令官(連合国要人を含む) 内閣総理大臣(政府要人を含む)間 会談関係/ 21)岡崎局長「マッカーサー」参謀長会談要旨(昭20、8、30)」(Ref. B17070026200))。たとえば、軍の要望を踏まえ、一般命令第一号の「軍隊を完全に武装解除」との文言を「軍隊を方面別の特殊事情に即応し、完全に武装を解除」と修正するよう要求している。これらは公式には認められなかったが、武装解除の実施段階では事実上、「特殊事情」への配慮は容認されていく。

【画像6】_連合国最高司令官(連合国要人を含む)_内閣総理大臣(政府要人を含む)間_会談関係/21_岡崎局長「マッカーサー」参謀長会談要旨(昭20_8_30)_Ref_B17070026200_2.jpg

【画像6】件名「1.連合国最高司令官(連合国要人を含む) 内閣総理大臣(政府要人を含む)間 会談関係/ 21)岡崎局長「マッカーサー」参謀長会談要旨(昭20、8、30)」(Ref.B17070026200、2画像目)

 

〔軍政の展開〕

マッカーサー元帥が、連合国軍最高司令官としてマニラから飛来して厚木基地に到着したのは、先遣隊の到着から2日後の8月30日であった。マッカーサーは直ちに横浜に移動し、さらに9月17日には東京に移り、10月2日に日比谷の第一生命ビルに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を設置した。ここに日本占領が本格的に始まる。(総司令部は52年4月28日の対日平和条約の発効とともに廃止され、日本占領も終了する。)

【画像7】_General_of_the_Army_Douglas_MacArthur_U_S_Army_second_from_right_Photograph_from_the_Army_Signal_Corps_Collection_in_the_U_S_National_Archives.jpg

【画像7】厚木基地到着後のマッカーサー(右から2番目)(”USA C-1732 General of the Army Douglas MacArthur, U.S. Army (second from right) ” Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives)、アジ歴にて一部編集

 

この占領期間を通じて、米軍中心の連合国軍が日本本土の各地に進駐した。「進駐軍」と呼ばれた占領軍は、各地への兵力展開がほぼ終わった10月末には総員30万人、12月末には45万人を超えピークに達している。

200冊を超える膨大な簿冊群「連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件」は、北海道から九州にいたる進駐状況を伝えているが、地域によって濃淡がある。たとえば京都、大阪、神戸の初期の進駐状況に関する資料は、ほとんど残されていない。

【画像8】_聯合軍司令部所在一覧表_5_軍政組織および人事(組織)_各軍団軍政部関係_Ref_B17070006400_2-scaled.jpg

【画像8】聯合軍司令部所在一覧表(二〇-一〇-二〇現在):件名「5.軍政組織および人事(組織)/3)各軍団軍政部関係/分割1」(Ref.B17070006400、2画像目)

 

当初日本占領軍の中心は、いずれも極東軍(前身は合衆国太平洋陸軍)の傘下にあった第8軍(横浜)と第6軍(京都)であった【画像8】。神戸、大阪、京都から富山、静岡、長野にいたる本州中部を管轄する第6軍の第1軍団の最初の進駐地は和歌山であった。9月下旬に進駐が始まり第一陣として9万2000人、第二陣として2万3000人が上陸した。外交記録によれば、和歌山では占領軍の要求する大量の労務提供にどう対応するかが大きな課題となり、9万人の人夫が動員されたという(昭和二十年十月三十日 終戦連絡和歌山事務一般状況報告ノ件:件名「4.各地区(厚木・横浜を除く)における米軍の進駐関係―連合軍の状況、動静報告を含む― 自昭和二十年九月/(5)近畿地区進駐関係」(Ref.B18090046500、23~24画像目)など)。他の進駐地でも同様の状況であったと推察される。

その後、第6軍司令部は45年12月末をもって解消され、翌年1月から所属部隊の指揮と占領行政を第8軍が引き継いだため、46都道府県はすべて第8軍の占領下におかれた。

占領軍には、46年2月からオーストラリア軍を主力とする英連邦軍(BCOF)が加わった。広島県の呉に司令部をおいた英連邦軍は、当初は中国5県と四国4県を管轄し、ピーク時の兵員は3万6000人に達したが、兵員の減少のため48年12月、広島県と山口県の岩国管区のみとなった。

第8軍の指揮下には、主要地域に地方軍政機構が、各府県には軍政チームが置かれ府県庁と接触をもったが、これは府県での占領政策を実施するためではなく、占領政策の実施を監視し、情報を上部に伝えるためであった。

占領軍の基本的任務は「最高司令官の指令の遵守を監視する機能」に限定されていた。日本国民に直接、命令を発するのではなく、覚書や指令の形で日本政府に命令を出し、政府がこの命令を履行する義務を負うという「間接統治」の形をとったのである。

「間接統治」の方針が徹底していなかった初期においては直接軍政に近い感覚で臨み紛議を起こした例も少なくなかった。いくつか興味ぶかい事例を紹介してみよう。

〔「直接軍政」の危機―三布告問題〕

降伏文書の調印式が終わった直後の9月2日の午後、鈴木九萬公使(横浜連絡事務局長)は、リチャード・マーシャル参謀副長から呼び出され、占領軍の東京進駐を申し渡された。同時に、翌3日午前に告示される予定の3種の布告文のテキストを示された。第一号は「行政、立法及司法の三権を含む日本帝国政府の一切の権能は、爾今本官〔マッカーサー〕の権力下に行使せらるるものとす」と、まさに直接軍政の方針を明示していた。

第二号は、占領政策違反者の軍事裁判を規定し、第三号は、米軍の軍票B円を法定通貨として日本円(日銀券)と同格で流通させる、と規定していた。驚いた鈴木は、ただちに政府に通報した。3布告が「直接軍政」を意味するものと理解した日本政府は臨時閣議を開き、布告の中止を求めることを決定し、深夜に終戦連絡中央事務局長官の岡崎勝男を横浜に派遣した。岡崎はリチャード・サザーランド参謀長に、とりあえず三布告の公布差し止めを要請すると、参謀長はこれを受け入れ、各部隊に差し止めを指示した。

【画像9】_1_一般_布告関係(昭20年9月3日_重光外務大臣_マックアーサー会見関係あり)_Ref_B17070000700_2_3.jpg

【画像9】件名「1.一般/2)布告関係(昭20年9月3日、重光外務大臣、マックアーサー会見関係あり)」(Ref.B17070000700、2、3画像目)、赤線はアジ歴による

 

翌9月3日午前、鈴木公使のあっせんで重光葵外相はマッカーサーと会見し、改めて布告の中止を申し入れた。重光は、直接国民に命令する布告案は、その内容も受け入れられないが、もし公布されれば、国民の政府への信頼は失われ政治の大混乱を招く、と力説した【画像9】。マッカーサーは、連合国の意図は日本の破壊ではないとして布告文を撤回し、布告の内容を実施する場合もまず日本政府を通じて行うことを約束した。さらに4日にも重光はサザーランド参謀長と会見してB円使用の差し止めの確約を得た(件名「1.一般/2)布告関係(昭20年9月3日、重光外務大臣、マックアーサー会見関係あり)」(Ref. B17070000700)など)。

こうして各地の占領軍に配布されていた10万枚の布告文のポスターは全て焼却され、国民の眼に触れることはなかったが、すでに占領下のドイツではマルク表示の軍票が使用されており、日本でも直接軍政は楽観できない情勢にあった。重光外相らの素早い対応、そしてサザーランド参謀長が、日本軍の武装解除が「整然と行われ居るは奇跡的」と感嘆したように、政府機能が強靭で、秩序の安定が保たれていたことが直接軍政を撤回させたのである。

〔千葉県・館山の危機〕

同じような出来事が千葉県の館山でも起こった。9月3日午前、ジュリアン・カニンガム准将ひきいる進駐部隊3000人が館山に上陸し、同日午後、カニンガムは林安総領事を訪問し、要求事項を列記した文書を手交した。この文書は占領目的として、「対象となる地区における行政を監督すること」をあげ、その任にあたる軍政参謀部は、裁判所、警察、金融財産の管理、教育、運輸などを所掌するものとされ、学校や酒場の閉鎖、夜間外出の禁止、10人以上の集会の禁止などを直ちに実行するよう要求していた。

林総領事から報告を受けた横浜連絡事務局は、直接軍政への「重大なる不安」を感じ、直ちにその真意を確かめるため覚書を総司令部に送った。横浜連絡事務局としては、占領軍の軍政は「帝国政府の機能〔中略〕は維持尊重」(間接軍政)が基本と理解していたからである。その後、日本側と占領軍の「誤解」が原因とされ、直接軍政の不安は解消されたという(横濱連絡事務局發聯合國最高司令部宛 覚書:件名「4.各地区(厚木・横浜を除く)における米軍の進駐関係―連合軍の状況、動静報告を含む― 自昭和二十年九月/(3)関東地区進駐関係(除厚木、横浜)」(Ref.B18090046300)、千葉縣電話報告 九月七日 米軍ノ要求事項ニ干スル件:件名「4.軍政一般/1)実施一般(米軍人命令を含む)/分割1」(Ref.B17070003400、33~35画像目)など)。

〔「軍政」から「民事」へ〕

49年7月、第8軍司令部は、大半の軍政機構から「軍政」(Military Government)の名称を「民事」と改称した【画像10】。たとえば軍政局は「民事局(Civil  Affairs Section)」となり、地方軍政部は「地方民事部(Civil Affairs Region)」と変更された。さらに大幅な機構の縮小が実施される。日本側は「日本政府にだんだんと責任を移譲してゆこうという思想の現れである」と見なした(件名「4.軍政一般/2)軍政を民政に移管関係」(Ref. B17070003600))。占領政策も潮目が変わり始めていた。

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【画像10】件名「4.軍政一般/2)軍政を民政に移管関係」(Ref.B17070003600、2画像目)

 

 

Ⅲ 終戦連絡事務関係

〔外交権の停止〕

日本の降伏と同時に、米国はスイス政府を通じて6つの中立国にあった日本の在外公館の財産、公文書の連合国への引き渡しを要求した。8月16日、東郷茂徳外相は、これらの要求はポツダム宣言のいずれの条項にも該当しない、として拒絶するようスイスの加瀬俊一公使に指示した。しかし、連合国は聞く耳をもたず、11月初旬、外国政府との一切の接触や通信は禁止される【画像11】。対外関係を処理するという意味での外交は消滅し、もっぱら占領軍との折衝こそが「外交」という時代を迎えることになった(簿冊「太平洋戦争終結による本邦外交権の停止及び回復に至る経緯 (写文書で編集)」(Ref. B17070076100)など)。

【画像11】_1_太平洋戦争終結による本邦外交権の停止関係_在本邦中立国代表との接触停止関係_Ref_B17070076600_2.jpg

【画像11】件名「1.太平洋戦争終結による本邦外交権の停止関係 自昭和二十年十一月/1)在本邦中立国代表との接触停止関係 自昭和20年11月」(Ref.B17070076600、2画像目)、画像は吉田茂外相から日本公使に接触停止を伝える電信の写し

 

〔連絡機関の設置〕

日本側の終戦処理に関する連絡機関として、8月22日に「終戦処理会議」と「終戦事務連絡委員会」が設置された。前者は首相のほか主要閣僚で構成される会議体で、後者は内閣書記官長を中心に、各省の係官で構成されていた。8月26日に外務省の外局として終戦連絡中央事務局(略称・終連)が設置されるにともない両者とも廃止される。

ところが連合国との折衝を担当する終連の重要性が高まるにつれ、政府部内から、単なる外務省の外局が、日本政府を代表して総司令部と直接折衝することが妥当か否かという疑問が提起され、終連の改組問題に発展する。当時の東久邇宮内閣は、9月8日、連絡機構を外務省から切り離して内閣直属とする「拡充改組案」を外務省に示した。外務省は、膨大な機構はかえって能率を阻害することなどから、連絡機関はあくまで外務省の外局にとどめるべきとして反対した。重光葵外相は、「外交(対外折衝)一元化」を主張して内閣案に強硬に反対して9月17日に外相を辞任してしまう。

この終連改組問題が、従来通り外務省の外局とすることで決着すると、各省との連絡調整の強化のため大幅な組織改編が行われ、終連は総裁と次長2名体制となった(改正終戦連絡事務局官制:件名「終戦事務情報/第一号」(Ref. B17070009000、2画像目))。また、各省間の連絡調整の強化のために「終戦連絡各省委員会」が設置された。この委員会は、ほぼ毎日開催され、45年10月から48年7月までの議事録が残されている(簿冊「終戦連絡各省委員会議事録 第一巻」(Ref. B18090106500)など)。議事録を一瞥すると、経済統制、物資の調達、食糧、運輸、追放など広範な問題を議論していることがわかる。

終連の傘下に横浜、京都、大阪、福岡など米軍の主要進駐地に地方事務局がおかれ地方軍政機関と連絡にあたった。終連は、48年に総理庁傘下の連絡調整事務局となったが、49年の行政改革で再び外務省連絡局に移管された。48年の連絡調整事務局への再編以降の記録類が「中央連絡協議会関係一件 議事録関係 第一巻 第一回~第五十回」(Ref. B18090110300)、「連絡調整中央委員会幹事会議事録 第一巻」(Ref.B18090104200)などの簿冊であり、とくに議事録類は興味深い。

また初期の占領軍との折衝や連絡業務の全体については、第一復員局が作成した「連絡業務の参考(准決定案)」(件名「7.総司令部との連絡業務関係」(Ref. B17070011000、3~22画像目))が参考となる。

(以下、次回記事へ続く)

 


※資料の引用に際しては、原則として旧漢字は常用漢字に、仮名は平仮名に統一した(資料名を除く)。また、読みやすさを考慮して読み仮名をつけるなど適宜表記を改めた部分がある。


注1 近現代の我が国とアジア近隣諸国等との関係に関わる歴史資料として重要な我が国の公文書及びその他の記録。

注2 戦後期の『日本外交文書』は以下の通り(令和6年度12月時点)。

  • 『平和条約締結に伴う賠償交渉 下』1冊
  • 『平和条約締結に伴う賠償交渉 上』1冊
  • 『沖縄返還 第一巻(第三次吉田内閣から池田内閣期まで)』1冊
  • 『GATTへの加入(上・下)』 2冊
  • 『昭和期Ⅳ 日米関係第一巻(昭和27~29年)』1冊
  • 『日華平和条約』 1冊
  • 『国際連合への加盟』2冊
  • 『占領期 関係調書』1冊
  • 『占領期 第1巻、第2巻』 2冊
  • 『サンフランシスコ平和条約 調印・発効』1冊
  • 『サンフランシスコ平和条約 対米交渉』1冊
  • 『サンフランシスコ平和条約 準備対策』1冊
  • 『平和条約の締結に関する調書』 第5冊
  • 『平和条約の締結に関する調書』第1冊
  • 『平和条約の締結に関する調書』第2冊
  • 『平和条約の締結に関する調書』第3冊
  • 『平和条約の締結に関する調書』第4冊