アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第44号

2024年7月30日

特集(2)

1964年東京オリンピック60周年記念 アジ歴資料にみる「東京オリンピック」

1.はじめに

現在、フランス・パリでは第33回オリンピックが開催中(2024年7月30日現在)で連日ご覧になっている方もいらっしゃることと思います。さて今年、2024年はパリオリンピック・パラリンピック開催の年であるとともに、第18回オリンピック競技大会、いわゆる1964年東京オリンピックの開催から60周年となる記念の年でもあります。

1964年東京オリンピックは日本のみならず、アジアで初めて開催された近代オリンピックとなりました。その開催は、日本の敗戦後の復興とサンフランシスコ講和条約発効や国連加盟を経た国際社会への復帰を世界に示すものであり、高度経済成長の象徴とも捉えられています。

その一方で、1964年東京オリンピックの開催においては、開催が予定されていたにもかかわらず日中戦争の激化によって中止された「幻」の1940年東京オリンピックの構想や計画との「連続性」を窺うことができます。とくに競技の行われる会場などの計画において1940年と1964年のつながりが表れています。

本特集では、1964年東京オリンピック60周年を記念して、1940年東京オリンピックの開催決定・返上から1964年東京オリンピックの開催に至るまでの歴史、つまりは二つの「東京オリンピック」について、その「場所」に焦点を当てながら、アジ歴公開資料を通じて紹介します。

 

2.1940年東京オリンピックの開催決定と返上

そもそも日本にオリンピックを、という構想が始動したのは1930年代に入ってからのことでした。当時の東京市長永田秀次郎が中心となり、第12回オリンピックを東京市に招致しようとしたのです。

 

 

上の資料をみると、永田は1940年に開催される第12回オリンピックが「時恰も(ときあたかも)我が開国二千六百年に相当致候間同大会を我が国に於て開催することは之が絶好の記念」であると述べています。つまり、「皇紀2600年」記念という「国体」を象徴する国家事業にオリンピックはふさわしいものである、として招致を呼び掛けていることがわかります。また、「国民体育上の裨益」、「海外人士をして本邦に対する理解」といった目的が述べられているほか、「復興事業」が進んでいることも理由として述べられます。ここでいう「復興」とは関東大震災に対するものです。

永田らの招致活動は実を結び、1936年7月、国際オリンピック委員会(IOC)総会において第12回オリンピックの開催地が東京に決定することとなりました。それを受けて、日本では第十二回オリンピック大会組織委員会が発足しました。

 

 

それでは組織委員会で話し合われた1940年東京オリンピックの計画を見ていきましょう。

 

組織委員会において話し合われたことの第一はその会場についてでした。大会の諸施設は「質実剛健を旨」とすることが決められ、その候補地について多くの案が出されていることがわかります。大会競技場の候補地には、代々木、品川駅付近埋立地、駒澤ゴルフ場、上高井戸、杉並、井荻、砧台、鷺宮、神宮外苑の各地が挙げられ、その面積や距離や交通などが比較されています。

 

 

会場選定のため、競技場調査委員によって調査が行われましたが、1937年1月20日には代々木を第一案とする答申が出されます。とくに委員の岸田日出刀が代々木案を主張していました。

当時の代々木には陸軍によって代々木練兵場が設置されており、近衛師団や第一師団の諸部隊が訓練に用いていました。そのため、調査委員は広大な土地が用意できると考え、10万人を収容できる巨大な競技場を建設する計画を立てたのです。

 

 

なお、渋谷区の全町会長会議からも「皇紀二千六百年を期し」たオリンピックの競技場を「畏くも(かしこくも)明治神宮の霊域を中心とする代々木練兵場」に設置する陳情書が出されています。

しかし、この会場選定は難航します。

第一案として出た代々木練兵場に競技場を建設することを軍部が了承しなかったのです。代わりに組織委員会は神宮外苑に目を向けることとなります。

 

神宮外苑には、既に競技場調査委員の一人である小林政一によって設計され、1924年に完成した3万5千人を収容できる明治神宮外苑競技場があり、神宮外苑案はこれを改修する案でした。

 

組織委員会は内務省神社局長に明治神宮の改造願を出しますが、10万人規模への改修に神社局が難色を示したため、神宮外苑案もまた暗礁に乗り上げることとなりました。

結局、組織委員会では駒澤ゴルフ場案に切り替えるのですが、時代は戦争へと歩みを進めていました。駒澤ゴルフ場案が浮上した前年の1937年7月7日には盧溝橋事件が発生、日中戦争が勃発しており、1938年1月には近衛文麿首相によって「国民政府を対手(あいて)とせず」とする声明が出され、戦争終結が見通せない状況になりました。そうした中でオリンピックの開催返上を唱える声が高まり、遂に1938年7月15日の閣議で返上が正式に決定されることとなったのです。

 

外務省作成の資料によると、今日の日本ほど外国との親善関係を必要とする国はないはずなのに、その日本自身がオリンピックを放棄し、長年の国民の宿望を「水泡に帰した」ことは「国民の離間を示す」もので、この開催返上は「日本軍部の犯せる」「大失敗」であると海外において報道されていることがわかります。

 

開催返上の閣議決定を受けて、東京市オリンピック委員会では声明書を発表しました。招致開始以来、識者の支援と絶大な努力によって開催が決定したのは、「皇国の盛運と挙国の支援」によるものでアジア初の大会開催の機会を失うのは「感慨に堪えさる所」であることが述べられています。

しかし、それに続いて「近き将来東亜に平和克服の期あるを信じ次期オリンピック大会を東京市に誘致すべく万全の努力を払」うことが高らかに宣言され、「将来の支援を懇請」し声明書が結ばれています。

こうして、1940年東京オリンピックは「幻」に終わりました。しかし、この声明書には彼らの無念と将来への希望がにじみ出ています。彼らの「絶大な努力」は本当に「水泡に帰した」のでしょうか。1940年東京オリンピックの構想と計画はどこに向かったのか、その行方を追っていく必要がありそうです。

 

3. 1964年東京オリンピックの開催 ―戦後日本とオリンピックの再招致―

1943年10月21日、1940年東京オリンピックの会場の案として挙がっていた明治神宮外苑競技場において出陣学徒壮行会が行われました。強い雨の降りしきるなか、東条英機首相によって演説が行われ、天皇陛下万歳が唱えられました。ぬかるんだグラウンドを2万5000人の学生が行進していく様子は「日本ニュース」の映像に残っています。

1945年の敗戦後、日本はGHQの占領下となり、軍の関係施設はそのほとんどが駐留する米軍のための施設へとつくりかえられました。

 

この1946年に作成された要綱をみると連合国軍最高司令官の要求による宿舎などの建造物や設備の実施事務は戦災復興院があたると定められています。

先にふれた1940年東京オリンピックの有力な会場案の一つであった、代々木練兵場も駐留する米軍の宿舎としてつくりかえられました。

 

 

これらの資料をみると多くの宿舎が軒を連ねていたことがわかります。この宿舎群は「ワシントンハイツ」と名付けられ、米軍関係者やその家族が住む住居、学校、教会などが設けられていました。

さて、敗戦から6年が経過した1951年、サンフランシスコにおいて講和条約が結ばれ、翌1952年、日本の主権が回復しました。

 

ここで主権回復直後の1953年に建設省によって作成され、次官会議にあげられた「集会広場」建設のための調書をみてみましょう。

「集会広場」が何を意味するのかは、明確な説明がないためわかりません。しかし、候補地として挙げられている土地は第一に代々木、第二に外苑です。候補地にはそれぞれ現況、地形、面積、交通などが簡単にまとめられています。代々木の現況には「元代々木練兵場、現在駐留軍家族宿舎(ワシントンハイツ)」と述べられ、工費概算には家屋移転の補償費が計上されています。1953年の時点で、政府において代々木や神宮外苑は「集会」に適している土地であると認識され、「広場」建設のために調査されていたことがわかるのです。

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、その一か月後には安井誠一郎東京都知事によって第17回1960年オリンピックの東京招致が表明されます。

 

第17回の招致は失敗しますが(開催地はローマに決定)、1959年のIOC総会にて第18回1964年オリンピックの開催地が東京に決定されました。

 

敗戦をはさんで24年振りに「東京オリンピック」が再び計画されることとなりました。オリンピック東京大会の準備等のために必要な特別措置に関する法律案の理由には「オリンピック東京大会の円滑な準備及び運営等に資するため、国等において特別の措置を講ずる必要が」説かれています。

 

スポーツ振興審議会は岸信介総理大臣あてに、東京オリンピック準備のための施設用地の確保についての要望書を提出します。そこでは明治神宮外苑周辺地域はスポーツの総合施設用地として最も適当であるため、配慮を望んでいることがわかります。のちに1964年東京オリンピックのメインスタジアムは神宮外苑に設置することが決定され、神宮外苑競技場を改修、旧国立競技場が建設されるに至ったのです。

 

一方の代々木――ワシントンハイツ――はオリンピック選手村及び屋内競技場の会場として活用する案が浮上してきました。もともと招致段階では、選手村は朝霞を予定されていましたが、多くの交渉を経て、1961年の閣議決定においてワシントンハイツの全域返還を受けること、そこに選手村と屋内競技場を設けることが決まりました。

ワシントンハイツにあった米軍用の宿舎は選手村の住宅として改修されたうえで活用されました。現在でも1戸が代々木公園内に保存されています。

そして屋内競技場として国立代々木屋内総合競技場が丹下健三の設計のもと1964年9月に完成したのです。

 

神宮外苑も代々木も「幻」の1940年東京オリンピックの計画において、有力な候補として立ち現れていたことは先に見た通りです。1964年東京オリンピックでは、このふたつの「場所」が主な会場として選ばれました。ここにおいて1940年と1964年の「連続性」がみてとれるのです。

 

ともかく、こうして1964年東京オリンピックは準備が整い、開催に至りました。10月10日に旧国立競技場で行われた開会式では、広島への原子爆弾投下の日である1945年8月6日に広島県で生まれた陸上競技選手の坂井義則によって聖火が灯されました。作家の三島由紀夫はこのオリンピックで「朝日新聞」など三紙の特派記者を務めましたが、この点火を「日本の青春の簡素なさわやかさの結晶」であったと言っています。

10月10日から24日までの二週間、93か国5,152名の選手が参加し、20の競技で163の種目が行われました。加えて、11月8日からは第13回国際ストーク・マンデビル競技大会(パラリンピックの前身)が行われ、21か国378名の選手が参加しました。

1964年東京オリンピックは、テレビなどのメディアの発達もあり、多くの選手の活躍が連日報道されることとなりました。例えば、バレーボールの「東洋の魔女」と呼ばれた女子日本代表チーム、マラソンのアベベ・ビキラ(エチオピア)、円谷幸吉、ウエイトリフティングの三宅義信などの選手たちは1964年東京オリンピックを代表する存在となりました。また、国立代々木屋内総合競技場を設計した丹下健三にはIOCから功労賞が贈られ、日本の近代建築が世界的水準にあることが示されました。

こうして1964年東京オリンピックは国際社会への復帰と敗戦からの「復興」、そして日本の高度経済成長を象徴づける出来事として、ひとびとに記憶されることとなりました。しかし、その「場所」に目を向けてみると構想や計画の中には、たしかに「幻」となった1940年東京オリンピックの遺産が息づいていたのです。

 

4.おわりに

2020年東京オリンピックが開催されたのは、コロナ禍の影響により2021年のことで、1964年東京オリンピックから半世紀以上が経過したあとのことでした。2020年東京オリンピックは東日本大震災からの「復興」が掲げられ、主な会場についても神宮外苑・代々木という「場所」が踏襲されました。「東京オリンピック」の記憶は今なお私たちに受け継がれています。

前述のように今年、2024年は1964年東京オリンピックから60周年となる年であるとともに、パリオリンピック・パラリンピックが開催される年でもあります。アジア歴史資料センターでは「東京オリンピック」はもちろんのこと、各国のオリンピックに関する資料を多数公開しています。これを機に検索・閲覧していただき、オリンピック・パラリンピックの歴史に思いを馳せる手助けになれれば幸いです。

※資料の引用に際しては、原則として旧漢字は常用漢字に、仮名は平仮名に統一した。また、読みやすさを考慮して読み仮名をつけるなど適宜表記を改めた部分がある。

 

【参考文献】

    • 「東京オリンピック、1940年~幻のオリンピックへ~」(国立公文書館アジア歴史資料センター『知ってなるほど明治・大正・昭和初期の生活と文化』(https://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/p06.html
    • 入江昭、有賀貞編『戦間期の日本外交』(1984年、東京大学出版会)
    • 古川隆久『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』(1998年、中央公論社)
    • 老川慶喜編『東京オリンピックの社会経済史』(2009年、日本経済評論社)
    • 片木篤『オリンピック・シティ 東京 1940・1964』(2010年、河出書房新社)
    • 豊川斎赫『丹下健三 戦後日本の構想者』(2016年、岩波書店)
    • 浜田幸絵『〈東京オリンピック〉の誕生 一九四〇年から二〇二〇年へ』(2018年、吉川弘文館)
    • 古川隆久『建国神話の社会史 史実と虚偽の境界』(2020年、中央公論新社)

 

<アジア歴史資料センター調査員 加藤総一朗>