2024年7月30日
本年7月3日、一万円札・五千円札・千円札で新札が発行されました。デザインが一新されただけでなく、世界初採用の3Dホログラムなどの新しい偽造防止技術が加えられました。
お札の肖像は、偽造防止の観点から、なるべく精密な写真を入手できること、肖像彫刻の観点からみて、品格のある紙幣にふさわしい肖像であること、肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていることが選定理由とされており、現在のお札の肖像は、明治時代以降の人物から選ばれています。
本稿では、新札発行を記念して、明治時代の日本初の肖像入り紙幣と、新札の肖像に選ばれた渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎について、アジ歴公開資料を通じて紹介します。
日本初の全国通用紙幣が発行されたのは1868年のことでした。当時の明治政府は、戊辰戦争の戦費調達など厳しい財政事情を切り抜けるため、また新政府の威信を全国に示すためにも、全国に通用する政府紙幣を発行しました。またその様式として、天皇を象徴する鳳凰や龍などの図柄を使用していました【画像1】。
この紙幣は太政官会計局から発行されたために一般に「太政官札」と呼ばれましたが、用紙や印刷方法が江戸時代に各藩で製造発行されてきた藩札とまったく同じであったため、福岡藩など各地で偽札が横行する事態となりました(件名「福岡藩贋札製造ノ徒及知事以下処分附顛末」(Ref.A15071438300))。
1881年より発行された改造紙幣は、偽造対策として紙幣用紙に透かしと写真彫刻による肖像画が取り入れられ、日本初の肖像入り紙幣となりました【画像2】。肖像画には神功皇后(じんぐうこうごう)が選ばれました。選定理由として、1877年の大蔵省文書「改造紙幣雛形ヲ定ム」では、『日本書紀』の記述により神功皇后は日本に貨幣の存在を伝えた「皇国貨幣の濫觴(らんしょう(起源という意味)。)」であるためとしています(件名「改造紙幣雛形ヲ定ム」(Ref.A24011754800、2画像目))。
肖像の選定をめぐって、国王の肖像を採用した諸外国を例に、一度は明治天皇の肖像が決定されましたが、太政官決裁文書「改造紙幣雛形ノ儀ニ付伺」の上に「神功皇后尊影鐫入ノ大蔵省上案ノ通ニテモ不都合ナカラン 御裁可ノアル所ニ従ウ」という付箋が貼られ、明治天皇自身の裁決で神功皇后の肖像が最終的に選定されました(「改造紙幣雛形ノ儀ニ付伺」国立公文書館所蔵(公02078100-021、10画像目))。現在、日本銀行券・政府紙幣をあわせ、20名が紙幣の肖像として描かれてきました。
新一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一(1840年~1931年)【画像3】は、第一国立銀行の総監役、頭取となった他、王子製紙、東京瓦斯など多くの近代的企業の創立と発展に尽力しました。本稿では渋沢による国際親善、いわゆる「民間外交」について紹介します。
渋沢は1867年開催のパリ万国博覧会列席に随行し、ヨーロッパの産業や制度を見聞し、その経験を企業・団体の創立と経営に活かすだけでなく、喜賓会幹事長として外国人客誘致と接待するなど、国際交流にも尽力しました。特に渋沢が大きな役割を果たしたのは「渡米実業団」でした。
渡米実業団結成の背景には、1906年からのアメリカでの日本人排斥問題の激化がありました。こうした排日問題に対して、1908年10月、日本の各都市の商業会議所が、日米交流としてアメリカ太平洋沿岸商業会議所代表委員を日本に招待しました。翌年、招待の答礼としてアメリカの各都市の商業会議所が日本の実業家を招待する決議を行い、1905年3月末まで東京商業会議所会頭であった渋沢が、自身を団長として「渡米実業団」を結成しました。渡米実業団は東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人50名から構成され、約3ヶ月間にわたりアメリカの主要都市を訪問しました(1909年9月1日シアトル着→10月12日ニューヨーク着→11月26日サンフランシスコ着→12月6日ホノルル着)。アジ歴では簿冊「米国太平洋沿岸連合商業会議所ヨリ本邦名士招待接伴一件」(Ref.B10073732900)にて「渡米実業団」関連資料を公開しております。
渡米実業団訪問に関して、各都市の外交官によってその歓迎状況が報告されました。9月9日から10日のオレゴン州ポートランド訪問に関する報告では、当地商業会議所主催の晩餐会における、渋沢の「日本の短期間の大幅な物質的進歩は米国に負う所少なくない」という答辞と、それに対するオレゴン州知事代理の「太平洋上に於ける自由かつ平和なる通商の発達を促進せんと欲することは日米両国政府の希望なり」という歓迎の辞などが取り上げられました【画像4】。
また9月19日のミネソタ州ミネアポリス商業俱楽部主催の午餐会における、渡米実業団と第27代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフトとの会見についても報告されています。会見では渋沢の挨拶に対し、タフト大統領は天皇陛下万歳と唱え、続いて渡米実業団は大統領万歳を三唱するといったやり取りも報告され、さらにタフト大統領は渡米実業団一行に対し歓迎の意を表し、同時に最近のアメリカにおける反日感情はアメリカ国民の一部であり、不謹慎な煽動者によるものだと演説しました【画像5】。
渡米実業団の訪問は、アメリカのメディアや各都市の商業会議所に取り上げられ、シカゴ商業会議所発行の広報誌『シカゴ商業』では、渡米実業団の集合写真や主要メンバーの顔写真が掲載されました【画像6】【画像7】。
12月1日に渡米実業団がサンフランシスコを出発する際、渋沢は外務大臣宛の電報にて、今回の渡米について、「天皇陛下の御聖徳と国威に依り予想以上の歓迎を受け、「国民的外交」を一歩進めることができたのは更に望外の幸せなり」と報告しました(渡米実業団桑港出発ニ臨ミ報告ノ件:件名「分割6」(Ref.B10073733700、61画像目))。渋沢はその後も何度か渡米し、日米親善に尽力したことによって、1926、1927年のノーベル平和賞の候補者として推薦されました【画像8】。
新五千円札の肖像画に選ばれた津田梅子(1864年~1929年)【画像9】は、女性の地位向上と女性の高等教育に生涯を捧げた教育家です。本稿ではアメリカにおける津田の足跡を中心に紹介します。
津田は1871年に満6(数え8)歳で日本初の女子留学生の一人に選ばれ、アメリカに官費で11年間留学しました。津田を含めたアメリカへの女子留学生5名は、北海道開拓使によって北海道における女学校設立と人材育成のために募集されました【画像10】。
5名の女子留学生は岩倉使節団の一行として渡米し、津田はワシントン郊外のジョージタウンに住むランマン夫妻(夫チャールズは日本弁務館(のちの公使館)の書記官)のもとで現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を吸収して成長しました【画像11】。
津田は1882年の暮れに帰国し、1885年に伊藤博文の推薦で官立の華族女学校の教授補に採用され、1886年教授となりました。1889年に高等教育を受けるべく再度アメリカへ留学し、フィラデルフィア郊外のブリンマ―大学で3年間生物学を専攻しました。
女子教育の学識経験者として、津田は1898年のアメリカコロラド州デンバー開催の万国婦人クラブ連合大会に日本代表の一人として出席し【画像12】、アメリカの女子教育制度の視察を行い、演説会では日本における女子教育の必要性を語りました。大会後、津田はイギリスのカンタベリー大僧正夫人始め有力婦人有志からの教育制度視察の招待をうけ、イギリスにも渡航しました(件名「亜米利加国婦人倶楽部連合会大会開設ニ付津田梅子他一名参列一件 附英国ヘ応招ノ件」(Ref.B07080279500、26画像目))。帰国後の1900年に、津田は華族女学校と女子高等師範学校の教授を辞任し、「女子英学塾」(現津田塾大学)を創設し、自ら塾長を務めました【画像13】。
サンフランシスコ発行の邦字新聞『新世界』の記事の通り【表1】、津田は塾長を務めながらも渡米し、女子教育事業の視察や関係団体との交流を継続しました。また津田は1929年8月16日に亡くなりましたが、その訃報はアメリカでも報じられました【画像14】。
新千円札の肖像画に選ばれた北里柴三郎(1853年~1931年)【画像15】は、伝染病研究と予防に多大な功績を残し「日本近代医学の父」と呼ばれました。本稿では北里柴三郎が伝染病研究所所長の時に実施した、伝染病予防対策に関する資料を中心に紹介します。
北里は1883年に東京大学医学部を卒業し、1886から1892年までドイツへ留学しました。このドイツへの留学は政府の命による官費留学で、御雇外国人に頼らない衛生制度の確立を目的としたものでした(件名「衛生学講習ノ為メ留学生欧洲ヘ派遣ノ儀」(Ref.A07062776600))。留学中の1889年には破傷風菌の純粋培養に成功し、免疫体の発見と血清療法の考案につなげました。
帰国後は内務省に復職し、1892年に私立伝染病研究所(1899年に国立伝染病研究所)を設立、所長に就任しました。1894年には政府の命を受けペストの原因調査のため香港に赴き【画像16】、ペスト菌を発見しました。
1895年の臨時陸軍検疫部による、日清戦争従軍の帰還兵に実施した検疫事業にて、北里は技術的方針決定の会合に参加し、多数の罹患将兵の大量の衣服等を短時間で消毒する方法として、「蒸気消毒汽缶(ボイラー)」の性能試験を実施しました。性能試験にて北里は100℃、30分間の蒸気消毒法という従来の半分の時間で効果が挙がったことを実証しました【画像17】。
また日露戦争が開始した1904年2月に、北里は「出征軍隊ニ予防接種施行ノ建議」と題する意見書を内務大臣に提出しました【画像18】。意見書にて北里は「普仏戦争や日清戦争などの戦争において、悪疫のために失う人命が、敵の砲弾によるものよりも多い。出征する軍隊で、悪疫が流行すると戦闘力を減殺するのみならず、軍隊が帰国する際に、病毒を国内に輸入し大流行の惨状を引き起こす」とし、出征する軍隊へ予防接種を行う重要性を説きました。この意見書は内務大臣から海軍大臣に送られましたが、国民の生命を守るという使命感にあふれたものであり、伝染病に対する根本的な対策を示していました。
1910年から1911年にかけて、清朝末期の満洲一帯に肺ペストが蔓延しました。桂太郎首相の要請を受けた北里は満洲に渡り、各地を視察しました(北里博士渡満:件名「Shin Sekai 1911.02.25」(Ref. J21020325800、6画像目))。満洲でのペストの惨状に対して、清国政府当局は、1911年の春、奉天(現瀋陽)で日本、ロシア、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、オーストリア、メキシコなど先進各国の医学者を集めたペスト防疫のための「国際ペスト会議」を開催し、北里はその会議の代表者として、ペストの防疫対策を決議して清国摂政へ提出しました【画像19】。
1914年、北里は伝染病研究所所長を辞任しましたが、北里研究所(現在学校法人北里学園の一部)や慶応義塾大学部医学科、日本医師会を創立するなど、教育活動や衛生行政などの分野でも貢献しました。1931年6月13日に北里は亡くなりましたが、その功績を讃え、勲一等に叙せられ旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)を授与されました【画像20】。
本稿では、新札発行を記念して、肖像に採用された渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎について、アジ歴で公開している、国立公文書館・外務省外交史料館・防衛省防衛研究所・スタンフォード大学フーヴァー研究所提供資料を通じて紹介しました。本稿を通じて渋沢、津田、北里の功績などの一端を振り返っていただければ幸いです。
【参考文献】
<アジア歴史資料センター研究員 溝井慧史>