2024年3月27日
デリー大学大学院博士課程 渡部春奈氏インタビュー
アジア歴史資料センターが公開する公文書や新聞などの一次資料は、歴史研究や時代考証などさまざまな場面で活用されています。今回アジ歴ではデリー大学の博士課程に在籍し、インド北東部のナガランド州における第二次世界大戦の記憶と記録をめぐる研究を続けている渡部春奈さんにお話を伺いました。ナガランドは、かつて日本軍がミャンマー(旧ビルマ)から当時の英領インドまで侵攻したインパール作戦(後述<アジ歴による用語解説>参照)の激戦地でした。兵站を軽視した凄惨で無謀な作戦として知られています。戦後80年を迎えようとするなか、ナガランドでは、今でも日本軍や連合軍が残していった遺品をさまざまなかたちで用い、暮らしを営む人びとの姿を目にすることができます。現地での聞き取りと資料調査を行う社会学のアプローチで研究に取り組む渡部さんに、戦争の記憶と記録を見つめるなかで見えてくるものについて伺いました。
プロフィール
渡部春奈(わたべ・はるな)
1989年東京都生まれ。デリー大学(DSE)社会学研究科博士課程在籍中。インパール作戦の激戦地となったナガランド州における戦争の記憶研究に従事し、2017年からインド留学を開始。戦争の多様な記憶と慰霊のあり方を、現地住民の視点から分析することを試みている。論文に「ナガランドにおける第二次世界大戦の記憶と記念式典の一考察: ナガランド州政府とナガの視点から」(Prime Occasional Papers第8号, 50-72, 2023)など。
<アジ歴による用語解説>
・インパール作戦
太平洋戦争中の1944年3月から7月に、日本軍によって実施されたインド北東部の都市インパールへの侵攻作戦。その目的は、援蒋ルート(連合軍が当時、中国の蒋介石政権に物資を運搬するために使用していた補給路のうちの一つ)の遮断、およびイギリス植民地支配下のインド独立運動を支援するというものであった。インパール作戦には、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース指揮下のインド国民軍兵士約6000名も参加した。補給路と制空権の欠如などから歴史的な惨敗を喫し、作戦参加兵力約10万人のうち、戦死者約3万名・戦傷病者約4万名を出した。
・ナガランド
ミャンマーと国境を接する、インド北東部の8州のうちの一つ。州都はコヒマ。ナガは部族集団を示す。政府認定の17の部族と、その他複数のサブトライブ(小部族集団)が存在する。
・ビルマ新聞
日本軍のミャンマー侵攻後、1943年1月1日からヤンゴン(旧ラングーン)で発行された邦字新聞。購読者層はほぼ同国の戦場の日本兵に限られており、戦時中の他の東南アジアの邦字新聞とは幾分異なり、陣中新聞の延長と考えられていた。発行元のビルマ新聞社は1945年4月21日に連合軍により閉鎖された。
―研究を始めるきっかけは何でしたか?
2009年、明治学院大学国際学部に在学中、ナガランドの歴史・文化を学ぶスタディーツアーの募集を見つけたことがきっかけでした。インドに行ってみたいという純粋な気持ちから応募したので、当初はナガランドについて何も知りませんでした。スタディーツアーに参加したことで、今まで知っていたインドに対するイメージとはまったくかけ離れた場所に対する興味が沸き、気がついたらのめりこんでいたという感じです。訪問する村々で日本軍との交流について聞く機会があり、日本でインパール作戦がどのように研究されてきたのかを調べてみました。すると、戦争の巻き添えになった現地の人がほとんど含まれていない、一方的な戦争像が浮かびあがってきました。そのギャップをどうにか埋められる方法はないかと考え、ナガランドへ通い出したのが始まりです。ナガランドの人たちは人懐っこく、見た目が私たち日本人と少し似ています。また納豆に似た発酵食品があり、納豆好きにはたまらない食文化や、自然豊かな風景にも惹かれました。
―ナガランドはどんな地域として知られていますか?
インド北東地域は、人種・文化・社会的にインドのいわゆる「主流社会」(現地の表現でメインランド)とは異なる社会であるという認識が、ナガランドを含めた北東地域の人たちにはあります。勉学や就職目的で北東地域を出ると、差別の対象になることもしばしばです。自分たちと「それ以外のインド」が、地理的にも社会的にも乖離があるという意味で、「メインランド」という言葉がよく使われます。インドの他の州の人びとも、北東地域についてあまり知らないという現状があります。
最初のスタディーツアーでナガランドへ行った後、コルカタ(旧カルカッタ)の空港からナガランドの人に電話をかけようとして、公衆電話のスタッフに「ナガランドにかけたい」と伝えると、スタッフに「それは海外だからかけられない」と言われたことがありました。「そこ(ナガランド)もインドだよ」と言っても「そんな場所は知らない」と言われてしまって。これくらいギャップがあるんだなと思いました。今はもう少し認知度が上がっていますが、当時はそのようなかんじでした。
―ナガランドの人たちが語る戦争と日本で知る戦争の歴史にはどんな違いがありますか?
ナガランドと言ってもとても広くて、戦争の話にもすごくバリエーションがあります。日本ではインパール作戦の各師団出身者がかなりの数の手記を書き残しています。手記では、いかに戦争で自分たちがつらい思いや苦労をしたかということに焦点が置かれ、二度と戦争をくり返すべきではないというメッセージが軸になっています。国や戦争指導者に対する怒りがひしひしと伝わってくるのが特徴です。いっぽうで、ナガランドに行くとそれとは異なる戦争の姿が見えてきます。いかに日本兵たちが食べものに飢えていたのか。見るからに可哀そうな日本兵にナガの人たちが肉や米などを分け与えたという話や、隠していた食料を丸ごと盗まれた話、軍隊の荷物などの運搬をさせられた話、戦闘で村に爆弾が落とされた話などをたくさん耳にします。
不発弾の話もよく聞きます。最近も調査で滞在した村の近くで不発弾が見つかりました。過去には、子供が興味本位で触って爆発してしまい手足を失ったり、治療できないまま亡くなったりしてしまった不慮の事故も報告されています。今でも不発弾が見つかる状況についても、私たちが考えなくてはならない重要な問題だと思います。
―研究はどのように進めていますか?
今はデリー大学のDelhi School of Economicsというカレッジの中の社会学科、博士課程に留学しています。2017年に渡航して、博士課程のコースが開始されたのが2018年の秋からでした。それまでの間、時期を見てナガランドで聞き取りを続けていました。本格的に長期滞在を計画していた2020年3月にナガランドへ入ったタイミングで、コロナによる全国封鎖になってしまい、2年間ナガランドから出ることができませんでした。最初の1年間は隔離生活で、村での聞き取りや公文書の調査など本格的に研究ができたのは2年目からでした。
―ナガランドでの調査は、どのように滞在して行っていますか?
基本的には現地の人たちの好意に甘えて、知人の家や教会のゲストハウスに宿泊させてもらうことが多いです。聞き取りを地理的に広範囲で行っていた時期は、移動に車が必須な点と、部族ごと、村ごとの言語の違いから、一人で調査をするのは難しかったです。ナガランドの人たちは親戚関係や友好関係がとても広いので、現地の知人の人脈に頼って、雪だるま式に聞き取りをする人を探しました。私が聞き取りをする高齢者は、部族の言葉しか話せないことが多いですが、若い世代は部族語、州の共通語であるナガミーズ語、英語に加えて、ヒンディー語が話せる人もいます。
コロナの全国封鎖以降は対象を絞って、一つの村に腰を落ち着かせて滞在調査を行いました。そこではもう少し掘り下げて、戦争の記憶がどのように保持されているのか、戦争遺品などのモノが、どのように過去を思い起こさせる役割を果たしているのか、という点に焦点を絞って調査しました。
―ナガランドでは戦争の記憶にどのようなかたちで出会いますか?
ナガランドでは、戦争時に落とされた爆弾がリサイクルされて、教会の鐘として使われているのを見かけます。ペック県では、8カ所の村でリサイクル爆弾を使用している教会がありました。
礼拝の前に、この鐘の音色が村中に響き渡ります。鐘以外にも兵士が残していったタライや飯盒型の弁当箱を湯沸かし器として使っている住民にも会いました。
これは豚の食事づくりに使われる鍋です。豚のえさは、時間をかけて残飯などを煮込んで作るため鍋の消耗が早く、ナガランドの市場で手にする鍋では、数年足らずで劣化してしまうということでした。一方、戦後見つけた金属製鍋は痛みにくく、何十年と使い続けていると言います。タライや飯盒も同じく、劣化せずに今でも大切に使われている様子がうかがえました。戦争の遺品をリサイクルして使う理由を尋ねると、みんな口を揃えて「質がいいから」と言います。今では何でも手に入る時代ではありますが、戦争直後は特に、竹や土でできたものしか手に入りませんでした。使い勝手がよく、丈夫な物はさまざまな用途に活用できるので、重宝されるのは自然なことかもしれません。「この金属製の鍋は夫が見つけてきた。夫が見つけてきたものの中で、唯一残っている戦争遺品だ」と言われることもあります。
―ナガランドでは第二次世界大戦がどのような体験として語り継がれていますか?
村や個人単位で多様な経験をしているので、一言にまとめるのは難しいですが、戦争経験者の語りは、日本兵が次から次へとやってきて、食料を提供せねばならなかった話が中心にあります。食料提供をしたことで、お金(軍票)をもらったと語る人に会ったことがありますが、軍票をもらっても使い道がなかったと言っていました。他にも、日本兵は親指が区切られている変わった靴を履いていた(地下足袋)、二本の枝を使って食事をとっていたなど、目新しさの一方で、日本兵の容姿がナガの人びとと似ていた、ということなどを聞きます。高齢化に伴い、年々、当時を知る人の経験を聞き集めることは難しくなっています。現地で聞き取りを熱心に行ったナガランド出身の牧師が、日本軍が進軍した村を訪問して聞き取り調査をすると、日本軍の乱暴で残虐な話が出てきます。しかし私が聞き取りをすると、現地の人は私に気を遣って語りません。
―ナガランドの人たちが戦争を思い出す日付はありますか?
一番よく耳にする日付は、4月4日です。「1944年4月4日、4時に来た」というフレーズをあちこちの村で耳にします。地理的に考えて、山に点在する村々に日本軍が同時に来たというのは考えにくいのですが、2019年には、4月4日に終戦75周年を祝う記念式典が執り行われました。国際的には、4月4日がThe Battle of Kohima(インパール作戦の戦いの一つ)の開戦日として記念されています。インド国内では、1947年8月15日にイギリスから独立を果たした記念日として、例年8月15日は政府主導の記念行事が各州で行われています。一方、ナガの人びとの間では、イギリス撤退以降にインドに組み込まれることを拒否する運動が活発化し、インド独立の前日である8月14日に独立宣言をしています。要求もむなしく独立は認められず、その後、長期に渡って独立運動が継続しました。現在はインド政府と独立運動組織の間で停戦合意を締結していますが、最終的な終戦合意には今なお至っていません。政治へのかかわり方で認識は異なりますが、今でもナガランドの独立を信じる人たちのあいだでは、8月14日を「インデペンデンスデイ」として記憶しています。
―アジ歴データベースで、渡部さんの研究と関連する資料はどのようなものでしょうか?
当時の社会状況を理解するために、アジ歴資料は役立っています。例えば、ナガランド州とマニプル州で街中や村を歩いていると「ジャパン・パタ」という葉っぱの話がよく出てきます。部族によって呼び方が少し変わりますが、「パタ」は「草」の意味です。街中を歩いているとその雑草を見かけます。日本兵は止血剤として「ジャパン・パタ」を傷口などに用いたといわれていて、現在では、ジャングルや農作業でけがをしたときに、現地の人びとが傷口にもみこんで使っています。
住民曰く、「これは日本軍が持ってきたものだ」と。第二次世界大戦前にはなかった草で、日本軍が来た頃に広がっていったから、日本から持ち込まれたものだろうと推測されています。雑草の学名(Ageratina Adenophora)はわかりましたが、日本語でこの草について詳細を知ることがまだできていません。ただ、第二次世界大戦中、陸軍のあいだで薬草研究が行われていたということがわかりました。
防衛省防衛研究所所蔵資料「防疫診療班派遣依頼の件電」(画像13、14)には、「住民防疫診療実施機関トシテ防疫診療班ヲ…ビルマ方面五ヶ班取敢ズ派遣セラレ度」「現地薬用植物栽培指導官ヲヲ…第十五軍[ビルマ方面を担当、編集注]一名…夫々軍政(総)現地要員トシテ派遣セラレ度」と記されています。
また、埼玉県粕壁町(現在の春日部市)の東京衛生試験所粕壁薬用植物圃場で、寄生虫駆除の栽培と「ヒノポジユウ」という草の研究が行われていた新聞記事も見つけました。1943年4月7日に発行されたビルマ新聞です。「埼玉県粕壁薬草研究所では寄生虫駆除薬のヒノポジユウ栽培に成功、近く大量の種を生産して関係方面に配布する」と書かれています。「南方の輝く戦果の陰には熱帯地特有の各種寄生虫が勇士達を悩ます」とあるので、駆除薬を手に入れることが困難ななか「ヒノポジユウ」の栽培に成功したことは軍として誇るべきニュースだったことがうかがえます。
ヒノポジユウは、カタカナを変えたり、いろんな検索キーワードを試して関連資料を探してみましたが、何の草なのかまだよくわかりません。でも、現地で栽培できそうな品種を日本でも開発研究していたことがわかっただけでも大きな一歩だと思います。
さらに聞き取りをしていると、日本語で憶えているフレーズを教えてもらうことがあります。例えば、「ニワトリください」「ニワトリありますか?」という会話を憶えている人に会いました。「ソンチョウ」という言葉もよく聞きます。「村長」のことですが、どういう意味かと聞かれることもあり、なぜ「村長」という言葉を日本兵が使っていたのか疑問に思っていたところ、防衛省防衛研究所所蔵資料でビルマにおける民衆獲得工作の記録を見つけました。「十三 敵地域デ時間ガナク何ウシテモ村民ヲ掌握シナクテハナラヌ時ハ村長有力者ヲ必ズ人質トシテ捕へヨ」「二 指導者有力者ヲ速カニ掌握セヨ 僧侶其ノ他県長郡長村長等ノ指導者掌握セヨ之ヲセズシテ直接ニ住民ニ手ヲ下スハ下策デアル」と書かれていて、なるほどそういうことかと思いました。
さらにビルマ新聞で「ビルマ語日用会話」と書かれた小さい欄を見つけました。左上のコーナーが「ビルマ語日用会話」です。事務室での会話例として「この手紙は誰から来ましたか」「それは村長から来ました」というやりとりをビルマ語で解説しています。日本軍が日常場面で使う言葉に「村長」があったと具体的なシーンを思い浮かべて知ることができました。
―ビルマ新聞は最近公開になった資料です。フーヴァー研究所とリンク提携を開始したことで、スタンフォード大学が公開している邦字新聞のページへアクセスできるようになりました。海外で研究に取り組むうえで、デジタルアーカイブにはどんな可能性と課題があるでしょうか?
アジ歴に、いつでも、どこからでもオンラインでアクセスできることは本当に助かります。私は現地の資料が非常に限られている中でオーラルヒストリーを中心とした聞き取りをしています。聞き取りは、検証することも含めて大変難しいものです。資料として残されている実証可能な記録と、人々がそれぞれに記憶している個別の視点から、まなざす歴史を相互に見ていかないと、総体的な事象を理解することはできません。アジ歴のようなデジタルアーカイブは、聞き取りと資料とを相互参照する上でとても大事な存在です。薬草や村長の話もそうですが、可能な限り現地の人たちの語りと公文書などに書かれていることを比較検証していくことで、ただ現地の人たちが「村長」と聞いたから言っているのではなく、実際に日本軍が「村長」という言葉を使って人心を掌握しようとしていたことが重なりあうと、より「真実性」の高い話になっていきます。
アーカイブ資料は誰がどのような立場から記録し、どの時代背景のもとで記録されたのか、という点をしっかり検討して利用する必要があります。また、当時記録されたにも関わらず、現在では残されていない資料が大量にあることも、忘れてはいけないと思っています。その「空白の空間」も意識しつつ、これからもデジタルで公開している歴史資料と現地での聞き取りをつなぐ研究を続けていきたいと思います。
※2023年12月11日オンラインインタビュー実施
<参考資料>
・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書15 インパール作戦―ビルマの防衛―』(朝雲新聞社、1968年)
・磯部卓男『インパール作戦―その体験と研究―』(丸ノ内出版、 1984年)
・カカ.D.イラル著、木村真希子・南風島渉訳『血と涙のナガランド―語ることを許されなかった民族の物語―』(コモンズ、2011年)
・火野葦平『インパール作戦従軍記―葦平「従軍手帖」全文翻刻―』(集英社、2017年)
企画・編集:大川史織(アジア歴史資料センター調査員)
編集総括・用語解説:水沢光(アジア歴史資料センター研究員)