アジ歴トピックス
アジ歴トピックスとは
I 戦争・事件
II 人 名
III 制度・用語
アンケート
Ⅰ 戦争・事件
△クリックすると下に関連資料の紹介が表示されます△
太平洋戦争
小トピック一覧 >
トピック
小トピック
資   料
解   説
太平洋戦争/大東亜戦争

「大東亜戦争」の名称
レファレンスコード:B02032436000
件 名:12.大東亜戦争の呼称について
△資料画像が開きます△
3枚目に、昭和16年(1941年)12月10日の大本営政府連絡会議で「大東亜戦争」という呼び方が決定された時の案があります。1項目目に「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と書かれています。
レファレンスコード:A06050925000
件 名:今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ関スル件
△資料画像が開きます△
1枚目から2枚目にかけて、昭和16年(1941年)12月12日に「大東亜戦争」という呼び方が閣議決定されたことを伝える文書があります。2枚目の1項目目に、「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と書かれています。
原爆/原子爆弾/広島原爆/長崎原爆/原爆投下
レファレンスコード:B02032435900
件 名:11.新型爆弾投下関係
△資料画像が開きます△
2枚目から3枚目にかけて、東郷茂徳外務大臣が在瑞西(スイス)公使館の加瀬公使に対して広島への新型爆弾(原爆のことです)の投下を伝えた電報があります。4枚目右には、昭和20年(1945年)8月11日付の朝日新聞の「国際法規を無視せる残虐の新型爆弾」と題した記事の切り抜きがあります。
レファレンスコード:A06030086800
件 名:昭和二十年・空襲被害状況報告・各地方検事正ヨリ司法大臣宛ノモノ
△資料画像が開きます△
1枚目から195枚目にかけて、各地の地方検事正が司法大臣に提出した空襲の被害状況に関する報告書があります。このうち、71枚目に、「八月六日広島空襲情報」と題した文書があり、広島に原爆が投下された時の被害が報告されています。前半は防空総本部からの昭和20年(1945年)8月8日午後3時時点の情報、後半は情報局からの8月8日午後2時半時点の情報です。184枚目から189枚目にかけて、長崎に原爆が投下された直後の8月12日に提出された一連の報告書があり、184枚目後半から185枚目後半にかけて原爆投下時の様子が、185枚目末から人や建物の被害状況が、それぞれ記されています。189枚目には、原爆投下と同時に撒かれたものとして、「即刻都市より退去せよ 日本国民に告ぐ!!」と題された宣伝単(ビラ)の文面が記されています。
レファレンスコード:B02032456000
件 名:1.一般/2 昭和19年10月3日から昭和20年8月8日
△資料画像が開きます△
31枚目から32枚目にかけて、昭和20年(1945年)8月10日に日本政府がアメリカ政府に対して発した、「米機ノ新型爆弾ニ依ル攻撃ニ対スル抗議文 昭和二十年八月八日」と題した、広島への原爆投下に対する抗議文があります。
真珠湾攻撃

レファレンスコード:C08051579600
件 名:昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)
△資料画像が開きます△
1枚目から4枚目にかけて、日本海軍空母機動部隊の旗艦であった空母「赤城」の航空部隊が真珠湾のアメリカ海軍艦隊を攻撃した時の戦闘記録があります。
レファレンスコード:C08051585400
件 名:昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書
△資料画像が開きます△
1枚目から4枚目にかけて、日本海軍空母機動部隊の主力であった空母「加賀」の航空部隊が真珠湾のアメリカ海軍艦隊を攻撃した時の戦闘記録があります。
レファレンスコード:C08030770300
件 名:昭和16年12月8日 布哇空中攻撃隊 戦闘詳報
△資料画像が開きます△
1枚目から38枚目にかけて、日本海軍空母機動部隊の主力であった空母「翔鶴」の航空部隊が真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃した時の戦闘記録があります。
沖縄戦
レファレンスコード:A03032013200
件 名:第24師団攻撃計画
△資料画像が開きます△
1枚目から13枚目にかけて、沖縄の防衛にあたった陸軍第24師団の攻撃計画書があります。
レファレンスコード:C08051695200
件 名:昭和20年4月~昭和20年5月 721空 飛行機隊戦闘行動調書
△資料画像が開きます△
1枚目10枚目にかけて、沖縄戦でアメリカ艦隊に対して特攻攻撃を行った第721海軍航空隊の戦闘記録があります。このうち、1枚目、3枚目、4枚目、6枚目以降の「任務」の欄に、沖縄で特攻兵器「桜花」による攻撃を行うことが書かれています。
レファレンスコード:C08030103200
件 名:昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)
△資料画像が開きます△
1枚目から92枚目にかけて、沖縄方面の攻撃作戦である「天一号作戦」の戦闘記録があります。27枚目に、この作戦に参加した戦艦大和の被害状況が記されています。74枚目には、司令官の伊藤整一中将の命令書があり、「海上特攻隊トシテ・・・」「沖縄西方海面突入・・・」などと書かれています。75枚目には、「一、軍隊区分」という項目があり、この中に戦艦大和の名前とその任務の内容が書かれています。
レファレンスコード:C08030566400
件 名:昭和20年4月6日~昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報
△資料画像が開きます△
1枚目から13枚目にかけて、沖縄戦に向けて出撃し、敵機の攻撃によって沈没した戦艦大和の最後の戦闘記録があります。
レファレンスコード:A06031059200
件 名:週報 第439-40合併号
△資料画像が開きます△
1枚目から9枚目にかけて、昭和20年(1945年)4月4日付の『週報』という雑誌があります。このうち、2枚目から4枚目にかけて、「血に染む沖縄の山河」と題した大本営海軍報道部による記事があり、連合軍艦隊の南西諸島周辺への侵攻から沖縄本島上陸、そして沖縄戦の展開について記されています。
レファレンスコード:A06030119000
件 名:国頭支隊秘密戦機関「国士隊」結成ノ件報告
△資料画像が開きます△
1枚目から5枚目にかけて、沖縄本島北部の国頭(くにがみ)郡の守備隊であった国頭支隊による「国士隊」の結成についての報告書があります。「国士隊」は、秘密戦(諜報・防諜などによる戦闘)を専門とする特務機関でした。このうち、3枚目から4枚目にかけて、「国士隊」結成の目的と経緯が記されています。
特攻隊/特攻/特別攻撃隊
レファレンスコード:A03022307500
件 名:御署名原本・昭和十九年・勅令第五二八号・海軍特修兵令中改正ノ件
△資料画像が開きます△
1枚目から3枚目にかけて、日本海軍の特修兵令という規則を改正することを定めた際の御署名原本があります。特修兵とは特殊な技術を身につけた兵士のことで、2枚目に、その中に初めて「特攻術」が加えられたことが書かれています。
レファレンスコード:C08030037600
件 名:昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)
△資料画像が開きます△
1枚目から12枚目にかけて、日本海軍が初めて神風特別攻撃隊を編成した昭和19年(1944年)10月のレイテ沖海戦(捷一号作戦)の際の戦闘記録があります。このうち、1枚目の中ほどに、「神風隊ノ攻撃一〇四五…」と書かれています。これが最初の「特攻」だと言われています。
レファレンスコード:A06031094100
件 名:写真週報 347号
△資料画像が開きます△
1枚目から8枚目にかけて、昭和19年(1944年)11月15日付の『写真週報』という雑誌があります。このうち、1枚目に、レイテ沖海戦の際に編成された神風特別攻撃隊の一隊「敷島隊」の隊長であった関行男大尉の肖像画が書かれた表紙があります。2画像目と3画像目には、敷島隊を始めとした神風特別攻撃隊の「戦果」が書かれています。
レファレンスコード:A06031094300
件 名:写真週報 349号
△資料画像が開きます△
1枚目から8枚目にかけて、昭和19年(1944年)11月29日付の『写真週報』という雑誌があります。このうち、1枚目に、陸軍の特攻部隊であった「富嶽隊」の隊員の様子が写った表紙があります。2枚目には、陸軍の特攻部隊についての記事があり、出撃前の「万朶隊」隊員の写真も載っています。
レファレンスコード:C08030077800
件 名:昭和20年3月1日~昭和20年7月31日 第2特攻戦隊戦時日誌(2)
△資料画像が開きます△
1枚目から21枚目にかけて、人間魚雷「回天」を使って特攻を行った、海軍の平生突撃隊の日誌があります。このうち、2枚目から11枚目には、訓練の日程が書かれています。
レファレンスコード:C08051618300
件 名:昭和20年4月~昭和20年5月 詫間空 飛行機隊戦闘行動調書
△資料画像が開きます△
1枚目から11枚目にかけて、特攻作戦を行った海軍の航空隊の1つである「詫間空」の戦闘記録があります。このうち、1枚目、4枚目、6枚目の「行動経過概要」の欄に「神風特別攻撃隊 水心隊」と書かれています。
戦艦大和/軍艦大和

レファレンスコード:C08030564700
件 名:昭和19年10月17日~昭19年10月28日 軍艦大和戦闘詳報 第3号(3)
△資料画像が開きます△
1枚目から51枚目にかけて、「捷一号作戦」(レイテ沖海戦)の際の戦艦大和の戦闘の記録の一部があります。このうち、1枚目に、大和の戦果が記され、2枚目から11枚目に、被害の状況が記されています。
レファレンスコード:C08030566400
件 名:昭和20年4月6日~昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報
△資料画像が開きます△
1枚目から13枚目にかけて、戦艦大和の最後の出撃となった、「天一号作戦」による沖縄への海上特攻の際の、同艦の戦闘の記録があります。このうち、6枚目から8枚目にかけて、魚雷攻撃による被害が激しくなり大和が沈没に至った時間帯の戦闘経過が記されています。
レファレンスコード:C08030103200
件 名:昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)
△資料画像が開きます△
1枚目から92枚目にかけて、戦艦大和の最後の出撃となった、「天一号作戦」による沖縄への海上特攻の際に大和に同行した、第2水雷戦隊の戦闘の記録の一部があります。このうち、27枚目に、大和が魚雷による攻撃を受けて沈没に至った際の被弾状況の図が描かれ、28枚目に、戦死者数と戦傷者数が記されています。45枚目の中ほどには、大和の通信能力が低かったことを指摘する分析が記されています。
ポツダム宣言
レファレンスコード:B02032979100
件 名:3.「ソ」連の対日宣戦通告関係
△資料画像が開きます△
15枚目から16枚目にかけて、ポツダム宣言の全文があります。ポツダム宣言は当初、アメリカ、イギリス、中国の3国が発したものとして「米英華三国宣言」とも呼ばれていましたが、後にソ連が加わり4国となりました。17枚目から19枚目にかけて、英語の原文があります。
レファレンスコード:A06030095800
件 名:思想旬報(号外)
△資料画像が開きます△
3枚目から27枚目にかけて、ポツダム宣言に対する国内の反応を内務省警保局保安課がまとめた「思想旬報(号外)」があります。このうち、5枚目から9枚目にかけて、「総合情勢」が書かれており、10枚目から、重臣層、軍人層、政界、新聞界、右翼、財界、生産界といった各層の主だった反応が記されています。
レファレンスコード:A03032243200
件 名:米英「ソ」三頭会談、英国選挙及「ソ」ノ対日作戦準備進捗等ニ伴フ情勢観察:米英重慶対日共同声明ニ関スル観察
△資料画像が開きます△
14枚目から16枚目にかけて、ポツダム宣言をめぐる情勢を大本営陸軍部が分析した「米英重慶対日共同声明ニ関スル観察」という昭和20年(1945年)8月8日付の文書があります。このうち、16枚目には、「「ソ」は今後東亜問題ニ関シ自主独自の立場ニ於テ処理スルモノト推測セラル」と書かれています。この翌日にソ連は日本に対して宣戦を布告しました。17枚目から19枚目にかけては、ポツダム宣言の全文和訳があります。
レファレンスコード:A03033831300
件 名:「ポツダム」宣言受諾ニ関スル内閣総理大臣及外務大臣報告
△資料画像が開きます△
1枚目から6枚目にかけて、ポツダム宣言の受諾について、天皇の臨席のもと、内閣総理大臣と外務大臣から枢密院(天皇が政治を執り行う際の最高諮問機関で、天皇の質問に応じて国家の重大案件を審議した後、天皇に助言を行いました)に対して報告をした際の記録があります。
レファレンスコード:A04017701000
件 名:御署名原本・昭和二十年・詔書九月二日・大東亜戦争終結ニ関スル関係文書調印ニ関スル件
△資料画像が開きます△
1枚目から3枚目にかけて、ポツダム宣言の受諾をうけて連合国に対する降伏文書に調印することを示した際の御署名原本があります。
大東亜共栄圏
レファレンスコード:B02030011100
件 名:一、一般、雑/9)帝国外交方針案 昭和十五年七月
△資料画像が開きます△
1枚目から17枚目にかけて、昭和15年(1940年)7月24日付の日本の外交政策の方針案があります。このうち5枚目に、「一.対露方針」という項目があり、その冒頭の「東亜新秩序建設」という文言の「新秩序」の部分に抹消線が入れられて「共栄圏」に修正され、文言が「東亜共栄圏建設」に改められています。
レファレンスコード:B02032959800
件 名:開戦二直接関係アル重要国策決定文書 第一から第十一
△資料画像が開きます△
1枚目から40枚目にかけて、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦に至る経緯の中で決定された様々な重要な国策がまとめられています。このうち、3枚目左から5枚目右にかけて、昭和15年(1940年)7月26日に閣議決定された「基本国策要綱」があります。この要綱についての8月1日の談話の中で、松岡洋右外務大臣が「大東亜共栄圏」という言葉を用いたことで、この言葉が広まったと言われています。38枚目左から40枚目にかけて、昭和16年(1941年)2月1日に連絡会議で決定された「対仏印、泰施策要綱」があります。この要綱の冒頭では「大東亜共栄圏建設」という文言が用いられています。
レファレンスコード:B04013611100
件 名:日、蘭通商条約関係一件/昭和十五、六年日、蘭会商関係/輿論並新聞論調 分割1
△資料画像が開きます△
4枚目右に、昭和15年(1940年)8月2日付「東京日日新聞」に掲載された「先ず南方策推進」と題された記事の切り抜きがあります。冒頭、「近衛内閣の外交方針は一日の政府声明及び外相談話をもって中外に宣明されたので松岡外相は同日直ちに在外使臣に新外交方針を訓電し内外呼応して関係国との間に活発なる外交戦を展開することとなった、しかして新外交方針の重点が大東亜共栄圏を確立することによって国際的大変局を指導しもって世界の新体制を建設するにある関係上当面の課題としては南方政策の積極的推進が取り上げらるべくこれと関連して対独伊関係、対米関係等における外交折衝が活発に展開されるものと予想される」と記されています。この記事で触れられている8月1日の談話の中で、松岡洋右外務大臣が「大東亜共栄圏」という言葉を用いたことで、この言葉が広まったと言われています。
レファレンスコード:A06031036100
件 名:週報 第199号
△資料画像が開きます△
1枚目から30枚目にかけて、『週報』という雑誌の昭和15年(1940年)8月7日号があります。このうち、5枚目に、松岡洋右外務大臣による「皇国外交の指針」という文章があり、「大東亜共栄圏」についての理念が説明されています。
レファレンスコード:A06032511900
件 名:部報 第128号 特輯 南方共栄圏
△資料画像が開きます△
1枚目から26枚目にかけて、昭和16年(1941年)8月15日付の『部報』という雑誌(台湾総督府臨時情報部発行)があります。このうち、3枚目左に、「大東亜共栄圏の確立」という記事があり、陸軍省報道部による「聖戦四年」という文章からの引用によって、「大東亜共栄圏」の概念が述べられています。
レファレンスコード:A06033003300
件 名:大東亜国土計画
△資料画像が開きます△
1枚目から79枚目にかけて、昭和18年(1943年)6月に企画院研究会が発行した『大東亜国土計画』という書籍があります。企画院は、戦時下における日本の経済政策の企画、推進を担った機関です。このうち、3枚目左から6枚目右にかけて、この書籍の「序」があり、この中で、「大東亜戦争」と「大東亜共栄圏の建設」についての説明がなされています。
レファレンスコード:B02032955900
件 名:1.大東亜会議開催及会議ノ状況/1 昭和18年10月2日から昭和18年11月6日
△資料画像が開きます△
2枚目から56枚目にかけて、大東亜会議の開催準備から会議後に至る、一連の経緯についての文書があります。このうち、2枚目から5枚目にかけて、会議開催の意図、参加者、内容について案をまとめた文書が、7枚目から13枚目右にかけて、青木大東亜大臣から会議参加国の駐在大使に対して会議の開催について伝えた文書が、13枚目左から43枚目にかけて、会議の準備委員会の名簿、議場の見取り図や席次表、各国代表団の一覧などが、44枚目には各国代表の一覧が、45枚目から48枚目にかけて、大東亜共同宣言の和文と英文が、49枚目から56枚目にかけて、会議の議事進行予定表が、それぞれあります。
レファレンスコード:A06031089300
件 名:写真週報 298号
△資料画像が開きます△
1枚目から11枚目にかけて、昭和18年(1943年)11月17日付の『写真週報』という雑誌があります。このうち、2枚目から4枚目にかけて、大東亜会議と大東亜宣言の特集記事があり、各国代表の記念写真や議場の写真、大東亜宣言全文などが掲載されています。
レファレンスコード:A03025363300
件 名:雑 大東亜会議並ニ大東亜共同宣言ニ関スル宣伝実施概況
△資料画像が開きます△
1枚目から6枚目にかけて、大東亜会議の開催及び大東亜共同宣言の採択の直後に、これらについての国内外での宣伝の状況を外務省情報局がまとめた文書があります。
ミッドウェー海戦

レファレンスコード:C08030040400
件 名:昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)
△資料画像が開きます△
15枚目から37枚目にかけて、日本海軍機動部隊の主力であった空母「赤城」がミッドウェー海戦に参加した時の戦闘記録があります。
レファレンスコード:C08030040500
件 名:昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)
△資料画像が開きます△
1枚目から30枚目にかけて、日本海軍機動部隊の主力であった空母「加賀」がミッドウェー海戦に参加した時の戦闘記録があります。31枚目から69枚目にかけて、同じく空母「蒼龍」の戦闘記録があります。
レファレンスコード:C08030040600
件 名:昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)
△資料画像が開きます△
1枚目から37枚目にかけて、日本海軍機動部隊の主力であった空母「飛龍」がミッドウェー海戦に参加した時の戦闘記録があります。
レファレンスコード:C08030023800
件 名:昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)
△資料画像が開きます△
1枚目から51枚目にかけて、日本海軍機動部隊の中心である第1航空艦隊がミッドウェー海戦に参加した時の戦闘記録があります。
レファレンスコード:C08030024100
件 名:昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)
△資料画像が開きます△
1枚目から58枚目にかけて、日本海軍機動部隊の中心である第1航空艦隊の戦闘記録があります。このうち、51枚目から52枚目にかけて、ミッドウェー海戦前後の日本艦隊の航路を示した「ミットウェイ海戦行動図」が、54枚目から58枚目にかけて、海戦の経過に沿って日本艦隊の各艦船の状況を示した「ミットウェイ海戦合戦図」が、それぞれあります。
レファレンスコード:C08051579700
件 名:昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)
△資料画像が開きます△
27枚目から32枚目にかけて、日本海軍機動部隊の主力であった空母「赤城」の航空部隊の戦闘記録があります。このうち、27枚目から29枚目にかけて、ミッドウェー島(イースタン島)のアメリカ海軍基地に対する攻撃を担当した部隊の記録が、30枚目から32枚目にかけて、母艦の護衛(上空直衛)を担当した部隊の記録が、それぞれあります。
レファレンスコード:C08051585400
件 名:昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書
△資料画像が開きます△
22枚目から27枚目にかけて、日本海軍機動部隊の主力であった空母「加賀」の航空部隊の戦闘記録があります。このうち、22枚目から24枚目にかけて、ミッドウェー島のアメリカ海軍基地に対する攻撃を担当した部隊の記録が、25枚目から27枚目にかけて、母艦の護衛(上空直衛)を担当した部隊の記録が、それぞれあります。
レファレンスコード:C08051579300
件 名:昭和16年12月~昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)
△資料画像が開きます△
57枚目から64枚目にかけて、日本海軍機動部隊の主力であった空母「飛龍」の航空部隊の戦闘記録があります。このうち、57枚目から58枚目にかけて、母艦の護衛(上空直衛)を担当した部隊の記録が、59枚目から60枚目にかけて、ミッドウェー島のアメリカ海軍基地に対する攻撃を担当した部隊の記録が、61枚目から64枚目にかけて、アメリカ海軍の空母に対する攻撃を担当した部隊の記録が、それぞれあります。
レファレンスコード:C08051578800
件 名:昭和16年12月~昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)
△資料画像が開きます△
54枚目から60枚目にかけて、日本海軍機動部隊の主力であった空母「蒼龍」の航空部隊の戦闘記録があります。このうち、54枚目に、アメリカ海軍機動部隊の捜索を担当した部隊の記録が、55枚目から56枚目にかけて、ミッドウェー島のアメリカ軍施設に対する攻撃を担当した部隊の記録が、57枚目から58枚目にかけて、ミッドウェー島(サンド島)のアメリカ海軍水上基地と航空機に対する攻撃を担当した部隊の記録が、59枚目から60枚目にかけて、母艦の護衛(上空直衛)を担当した部隊の記録が、それぞれあります。
レファレンスコード:C08030128500
件 名:昭和17年4月~昭和17年7月10日 第5潜水戦隊戦闘詳報
△資料画像が開きます△
1枚目から40枚目にかけて、ミッドウェー海戦に参加した潜水艦を主とする第5潜水戦隊の戦闘記録があります。このうち、28枚目から31枚目にかけて、ミッドウェー海戦の経過の概要が記されており、33枚目から35枚目にかけて、同戦隊を構成する各部隊ごとの動きが記されています。
レファレンスコード:A06031045900
件 名:雑 週報 第297号
△資料画像が開きます△
1枚目から20枚目にかけて、昭和17年(1942年)6月17日付の『週報』という雑誌があります。このうち、6枚目に、「敵の『空母集団』殲滅」と題した大本営海軍報道部による記事があり、日本海軍がミッドウェー海戦でアメリカ海軍の戦力に大きな打撃を与えたと述べられています。
東京大空襲
レファレンスコード:B02130544900
件 名:第十報/二、大東亜各地
△資料画像が開きます△
1枚目から3枚目にかけて、外務省政務局による昭和20年(1945年)3月16日付の『世界情勢ノ動向』という報告書の一部があります。このうち、1枚目右の中程に、マリアナ群島のアメリカ軍のB-29爆撃機が3月10日未明に東京に大規模な夜間空襲を行い、「罹災者、死者、行方不明者ノ数ハ、大震災当時ニ匹敵スルノ損害」を生じたと記されています。
レファレンスコード:B02032456000
件 名:1.一般/2 昭和19年10月3日から昭和20年8月8日
△資料画像が開きます△
33枚目から34枚目にかけて、昭和20年(1945年)5月1日時点での、主要都市の空襲被害状況をまとめた表があります。このうち、33枚目右に「死傷者状況」の表があり、大空襲のあった3月の東京の数値が突出しており、死者が78,659名、傷者(負傷者)が42,320名となっています(現在確認されている死傷者数とは異なります)。
レファレンスコード:A05020268900
件 名:功績調書
△資料画像が開きます△
1枚目から4枚目にかけて、東京大空襲時に内務省内で防火活動等を行った内務省警保局雇の4名の功績をまとめた調書があります。
▲ 先頭にもどる ▲
アジア歴史資料センターホームページへ