公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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 ●日米諒解案
 昭和15年(1940年)の日本軍の北部仏領インドシナ進駐と、日独伊三国同盟の締結に対する、アメリカ側の重慶国民政府への援助強化、太平洋艦隊の強化などの対応によって冷え込んだ日米関係を打開するため、同年11月、ウォルシュ司祭とドラウト神父が来日しました。二人は政府、財界、軍部各方面の関係者と会見し、日米関係の改善策について意見を交換しました。そして、アメリカ帰国後の昭和16年(1941年)1月、ルーズヴェルト米大統領とハル米国務長官にその結果を報告、「ウォルシュ覚書」を提出しました。この民間交渉の背後にいた人物としてフランク・ウォーカー米郵政長官が挙げられます。
 また、ウォルシュ、ドラウトの訪日時、日本側でもっとも緊密な連絡をたもったのは、産業組合中央金庫理事の井川忠雄でした。井川はドラウトが日本滞在中にもちかけた「日米首脳会談」案を近衛総理大臣、松岡外務大臣、武藤章陸軍省軍務局長らに取り次ぎました。
 井川は「外務省嘱託」の資格で、昭和16年(1941年)2月下旬に渡米しました。井川の渡米には近衛や有馬頼康元農林大臣の支持があり、「日米交渉に関するアメリカ政府の意向を打診して報告して欲しい」と依頼を受けていました。3月上旬から中旬にかけて、井川はドラウト、ウォルシュ、時にはウォーカーを交えて日米国交調整の方策を検討し、基礎案の作成にあたりました。この状況は井川から大使館を通さず近衛宛に連絡されていました。
 このようにして大使館の関知しないまま、3月17日には日米国交調整に関する「原則的合意」についての予備的草案である「井川・ドラウト案」が作成されました。4月からはこの民間交渉に陸軍省の前軍事課長岩畔豪雄大佐が加わり、大使館側も岩畔から報告を受け、協議も行われるようになりました。
 やがて「井川・ドラウト案」をもとにして修正案が作成され、4月14、16日の野村・ハル会談において、このいわゆる「日米諒解案」をその後の「日米交渉」を進めるうえでの出発点とすることが合意されました。
 この「諒解案」は、

 1.全ての国家の領土保全と主権尊重
 2.他国に対する内政不干渉
 3.通商を含めた機会均等
 4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持

の4項目からなる、いわゆる「ハル四原則」を日本側が受け入れることを前提としたものでしたが、近衛ら日本政府側は「諒解案」を歓迎しました。しかし、ドイツ・イタリア・ソ連訪問中であった松岡は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、三国同盟問題との矛盾点を指摘し、大本営政府連絡懇談会での話し合いも紛糾することとなりました。

 この「日米諒解案」に関連して以下のような資料があります。

資料1:B02030714300 1 昭和16年2月15日から昭和16年3月15日(9画像左〜10画像)
「昭和16年3月1日野村大使発松岡外務大臣宛公電(外機密、館長符号)」
画像資料
資料2:B02030738000 2 外交資料 日米交渉記録ノ部 日米交渉資料(一) 第二次近衛内閣時代 1(9画像〜12画像右)
「五、四月十七日日米両国諒解案四月十七日来電二三四号」
画像資料
資料3:B02030715600 14 昭和16年7月14日から昭和16年7月15日(5画像〜15画像)
「昭和十六年七月十五日野村大使発松岡外務大臣宛公電第五〇八号(極秘、館長符号)」
画像資料
資料4:B02030715100 9 昭和16年5月15日から昭和16年5月19日(9画像右)
「昭和十六年五月十三日在米野村大使発松岡大臣宛公電第三〇四号(外機密、館長符号、大至急)(写)」
画像資料

 資料1は、野村が松岡外務大臣に宛てて井川について問い合わせた電報です。この中で野村は、井川がウォルシュ、ドラウトらとの関係、さらにルーズヴェルトと接触し日米会談を進めるための工作を行っていることを詳細に述べたことを報告し、松岡、近衛および陸海軍と井川との関係について問い合わせています。
 資料2は、昭和16年(1941年)4月17日に野村大使が近衛文麿外務大臣臨時代理に対して送った電報の写しで、「日米諒解案」の全文です。この資料によれば、この「諒解案」は以下のような条項からなっています。

一、日米両国ノ抱懐スル国際観念並ニ国家観念
二、欧州戦争ニ対スル両国政府ノ態度
三、支那事変ニ対スル両国政府ノ関係
四、太平洋ニ於ケル海軍兵力及航空兵力並びニ海運関係
五、両国間ノ通商及金裕提携
六、南西太平洋方面ニ於ケル両国ノ経済的活動
七、太平洋ノ政治的安定ニ関スル両国政府ノ方針

 このうち第三項では、以下の項目をアメリカ政府が容認し、また日本政府が保障することを前提として、アメリカ大統領が日中和平の仲介を行う、としています。

A.支那ノ独立
B.日支間ニ成立スヘキ協定ニ基ク日本国軍隊ノ支那領土問題
C.支那領土ノ非併合
D.非賠償
E.門戸開放方針ノ復活但シ之カ解釈及適用ニ関シテハ将来適当ノ時期ニ日米両国間ニ於テ協議セラルヘキモノトス
F.蒋政権ト汪政府トノ合流
G.支那領土ノ日本ノ大量的又ハ集団的移民ノ自制
F.満州国ノ承認


 資料3は、野村が松岡に対してそれまでの経過を説明した電報です。この中で野村は、松岡が汪兆銘工作の際に行った「裏面工作」に敬意を示しつつ、今回の日米交渉についても「裏面工作」が有効であり、松岡の承認が得られることを期待している、と述べています。また、井川と岩畔の活動についても意見を述べています。この中で野村は、2月末には、井川の依頼した情報電報の取り次ぎに関して、大使館員との間に行き違いが生じていたが、4月以降、岩畔の監督の下、ウォーカー郵政長官、ハミルトン米国務省極東部長、バレンタイン米国務省参事官ら「裏面工作」の対象者と接触するなど、効果的かつ熱心に活動しており、野村としては何等不都合はないと考えている、としています。
 資料4は、野村が松岡に対して、日本側覚書の手交を見合わせる訓令を求めた電報ですが、その冒頭で、現在進行中の会談は、ハルの言う通り「オフレコード」の「プライベート・トーキング」であり、正式な交渉には入っておらず、「諒解案」についても、この線に沿って話し合うものである、と述べています。
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