公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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 ●パネー号事件と日米関係
 パネー号事件とは、昭和12年(1937年)12月12日、中国の南京付近で、揚子江上のアメリカ砲艦パネー(“Panay”:「パナイ」と表記されることもあります)を日本海軍機が爆撃、沈没させた事件のことです。
 当時、盧溝橋事件(昭和12年(1937年)7月7日)の勃発から5ヶ月経ち、日本軍は12月初めに当時中華民国の首都であった南京近辺に達していました。
 この頃の日本と中国との戦争をめぐる一連の出来事をまとめると、以下のようになります。
昭和12年(1937年) 7月 7日 盧溝橋事件勃発
昭和12年(1937年) 7月27日 日本政府が「北支那事変」に関し自衛行動をとると声明、内地の三個師団に華北派遣命令を出す
昭和12年(1937年) 8月13日 上海で日中両軍が交戦を開始
昭和12年(1937年) 8月15日 日本政府が「南京政府断固膺懲(ようちょう)」(「南京国民政府を断固として打ち懲らしめる」という意味)を声明
昭和12年(1937年) 9月 2日 日本政府が「北支那事変」の呼称を取りやめ、これを「支那事変」と呼ぶことを決定
昭和12年(1937年) 9月22日 国民党と共産党との間で対日を旨とする協力体勢が発足(第二次国共合作)
昭和12年(1937年)11月12日 日本軍が上海を占領
昭和12年(1937年)11月20日 蒋介石、南京から重慶への遷都を宣言
昭和12年(1937年)12月12日 パネー号事件
昭和12年(1937年)12月13日 南京陥落
昭和13年(1938年) 1月16日 第一次近衛声明(「帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」)
 こうしたさなかで、12月12日、日本の海軍機が、パネー号ほか数隻のアメリカ船舶を攻撃して沈没させるという事件が起きました。 これが意図的なものなのか誤りによるものなのかについては、事件当日以来、日本とアメリカとの間で主張がわかれ、また人々の間で様々な意見が飛び交いましたが、いずれにしても日本側の重大な失策であることは明らかでした。 日本は事件が誤りによって起きたとして、ただちにアメリカに対して陳謝を行いました。 しかし、パネー号事件は、アメリカで大々的に報道され、厳しい対日世論を引き起こしました。
 この事件に関連した資料は、以下のものがあります。

 
資料1:C01001658400 「パナイ」号事件に関し12月17日附米国大使館「エード、メモアール」に対する回答文写送付の件
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資料2:C01001658500 「パナイ」号事件に関する帝国政府回答文及12月26日附米国大使来翰写送付に関する件
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資料3:C01007133700 「パナイ」号事件損害補償方に関し米国側より申出の件(大日記乙輯昭和13年)
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資料4:A03023965800 「パネー」号及英艦砲撃事件に対する各国の反響(一)
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資料5:A03023965900 「パネー」号及英艦砲撃事件に対する各国の反響(二)
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資料6:B02030665500 1 昭和21年1月
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資料7:B02030665600 2 「パネー」号事件
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 資料1は、アメリカ大使館からのパネー号事件に関する覚え書きに対する日本側の回答文写しを収めたものです。回答文では、事件の詳細が述べられ、それは誤認に基づく過失であり決して日本軍が意図的かつ計画的に行ったものではないと主張しています。
 資料2は、昭和13年(1938年)1月1日付け外務次官から陸軍次官に対して送られたもので、昨年12月24日付けの広田弘毅外務大臣からグルー駐日大使に送られた文書とそれに対するアメリカからの回答文が収められています。そこで、今回の事件は日本軍が中国におけるアメリカの権益を無視したために起こったというアメリカ側の主張に対し、広田は故意によるものでなく全くの過誤に基づくものであると反論しています。その上で、広田は現場の責任者に対し二度とこうした事態が起こらぬよう必要な処置をとったと記しています。この文書に対しアメリカ政府は、日本政府が素早くその責任を認め遺憾の意を表明し、必要な措置をとったことを評価しています。その上でアメリカ政府は、今後、以上の措置によってアメリカ権益が不当に脅かされることが無いよう希望しています。
 資料3は、昭和13年(1938年)3月21日付のパネー号事件に関する損害補償額についてのアメリカ大使よりの公文写しと仮訳を外務次官から陸軍次官に送ったものです。公文の中で、アメリカ側が損害賠償総額を221万4千ドル余りと試算し、これは実際の損害及び死傷事件により生じる損害の穏当な見積もりであり、何ら懲罰的な意味を含んでいないと主張しています。
 資料4と5は、昭和12年(1937年)12月16日に外務省情報部が作成したパネー号事件に対する各国世論の反応をまとめたものです。この資料からパネー号事件についての当時の非常にセンセーショナルな報道の一端が窺えます。
 資料6と7は、昭和21年(1946年)になってパネー号事件についてまとめた資料です。

 パネー号事件の後も、日本兵による在南京アメリカ大使館侵入事件やアリソン書記官殴打事件等が相次いで起き、これによってアメリカ人の対日感情はますます悪化していきました。
 こうしたいくつかの事件に関連する資料は、以下のものがあります。

資料8:C04120275900 日本兵の南京米国大使館侵入に関する件
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資料9:C01001659600 「アリソン」事件に関する米国大使申入並に回答に関する件
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資料10:A03024003000 米国 「アリソン」氏殴打事件ニ就テ
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 資料8は、昭和12年(1937年)12月23日、24日に日本軍兵士が、南京のアメリカ大使館構内で略奪行為を行ったことを伝えるものです。最後の部分で、この出来事がもし事実だとすれば、せっかく決着を見たパネー号事件についてのアメリカの反感を、再び呼び起こす恐れがあるとの懸念が示されています(4画像目)。
 資料9と10は、いわゆるアリソン事件に関する資料です。アリソン事件とは、南京アメリカ大使館三等書記官のジョン・M・アリソンと金陵大学のアメリカ人リッグスが、日本兵によって殴打された事件です。もともとのきっかけは、武装した日本兵がアメリカ人の所有する金陵大学に侵入し、中国人婦人避難民をアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連行し、同邸を占拠していた日本人兵士が婦人を暴行した出来事でした。この出来事の調査のため、アリソンとリッグスは、日本の領事館警察と憲兵を同行し現場に行ったところ、日本人将校が現れ口論となり二人を殴りつけました。アメリカ政府はグルー駐日大使を通じて強硬に抗議し、日本政府はすぐに謝罪して賠償を約束し、外交的には一応決着をみました。
 資料9は、昭和13年(1938年)2月7日に外務次官堀内謙介から陸軍次官梅津美治郎宛に送られた文書で、アリソン事件に関するグルー駐日アメリカ大使からの申し入れとそれにする回答案が記されています。
 資料10では、アメリカにおけるアリソン事件の報道が紹介されています。
 以上のパネー号事件やアリソン事件の報道を通じて、アメリカ国民の間に対日感情の悪化がもたらされました。
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