公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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 ●「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)関連資料
 ここでは、アジア歴史資料センターで公開している「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)の各種案文、および実際に駐アメリカ大使館へ電送された本文をすべて紹介します。
1、「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)各種案文、
及び駐アメリカ大使館宛電送文


資料1:B02030734600 9 十一月二十六日米案ニ対スル意見 対米通牒案(十二月五日) 2(24画像〜43画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書」
画像資料
資料2:B02030734600 9 十一月二十六日米案ニ対スル意見 対米通牒案(十二月五日) 2(8画像〜24画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書」
画像資料
資料3:B02030734600 9 十一月二十六日米案ニ対スル意見 対米通牒案(十二月五日) 2(44画像〜55画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書(案) 一六、一二、三」
画像資料
資料4:B02030734600 9 十一月二十六日米案ニ対スル意見 対米通牒案(十二月五日) 2(1画像〜7画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書(案) 一六、一二、三」
画像資料
     B02030734500 8 十一月二十六日米案ニ対スル意見 対米通牒案(十二月五日) 1(2画像〜12画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書(案) 一六、一二、三」
画像資料
資料5:B02030734600 9 十一月二十六日米案ニ対スル意見 対米通牒案(十二月五日) 2(55画像〜64画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書(案) 一六、一二、五」
画像資料
資料6:B02030723900 7 昭和16年12月6日から昭和16年12月7日(9画像〜16画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書 一六、一二、六」
画像資料
資料7:B02030734700 10 帝国政府ノ対米通牒覚書(1画像〜9画像)
「帝国政府ノ対米通牒覚書 一六、一二、六」
画像資料
資料8:B02030723900 7 昭和16年12月6日から昭和16年12月7日(17画像〜25画像)
「MEMORANDUM」
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資料9:B02030748300 日米交渉 下巻(其ノ二)3(33画像〜49画像)
「対米覚書」
画像資料

 資料1は、手書きの案文で、外務省内で起草された最初の案文とみられます。
 資料2は、資料1の文章をタイプ打ちし、そこに修正を加えたものです。
 資料3は、資料2に更に手を加えたもの(これは、アメリカ議会図書館マイクロフィルムの極東国際軍事裁判関係文書〔以下IMTと略記。これについては、レファレンスコード:B02030714100の資料もご参照下さい〕に収録されていますが、外務省記録には現存していません。よって、アジア歴史資料センターにも存在しません)をタイプ浄書したものです。
 資料4は、資料3に手を加えたもの(IMT)をタイプ浄書し、修正が加えられたものです。日付は12月3日になっています。
 資料5は、資料4のタイプ浄書版に修正を加えたもの(IMT)をタイプ浄書ものです。日付はこの段階では12月5日になっています。
 資料6は、資料5と同じタイプ版に修正を加えたもので、日付が12月6日にかわっています。ただし、最終ページが欠落しています。
 資料7は、資料6をタイプ浄書したものの印刷版です。
 資料8は、資料7の英文浄書で、「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇二号(館長符号、別電)」にて電送されたものの本文であるとされています。
 資料9は、後年編纂された「日米交渉資料」の一部で、「対米覚書」の日本文、英文の全文です。

 本解説文は、原口邦紘「史料紹介 「帝国政府ノ対米通牒覚書」(案)について」(『外交史料館報』18、2004、39〜103頁)を参照して作成しました。詳細については、この論文をご覧下さい。
2、「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)発電前後に
外務本省より駐米大使館宛に発電された各種電文


資料10:B02030723800 6 昭和16年12月3日から昭和16年12月6日(21画像)
「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号(写)」
画像資料
資料11:B02030723900 7 昭和16年12月6日から昭和16年12月7日(1画像〜2画像)
「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号(別電、館長符号)(原議)」
画像資料
資料12:B02030723900 7 昭和16年12月6日から昭和16年12月7日(26画像)
「昭和16年12月6日起草東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇四号(館長符号)」
画像資料
資料13:B02030723900 7 昭和16年12月6日から昭和16年12月7日(32画像)
「昭和16年12月7日起草東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇五号 大統領親電ニ関スル件(大至急、館長符号)(原議)」
画像資料
資料14:B02030723900 7 昭和16年12月6日から昭和16年12月7日(33画像)
「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇七号 日米交渉(覚書提出二関スル件)(大至急、館長符号)(原議)」
画像資料
資料15:B02030724000 8 昭和16年12月6日から昭和16年12月8日(2画像〜3画像)
「昭和16年12月7日起草東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇八号(大至急、館長符号)(原議)」
画像資料
資料16:B02030724000 8 昭和16年12月6日から昭和16年12月8日(1画像〜2画像)
「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九一一号(緊急、館長符号)(原議)」
画像資料

 資料10(九〇一号)は、昭和16年(1941年)12月6日東郷外務大臣が野村大使に対し「対米覚書(英文)」を決定した旨と、長文であるが機密を保持すること、訓令があり次第、いつでもアメリカ側に手交できるよう準備しておくことを指示した電報です。
 資料11(九〇二号)は先に資料8で挙げた「MEMORANDUM」を電送した電報で、本省から14分割されて発信された通しの発電番号が書き込まれています。本文の欄外に記載された書き込みによれば、13分割目まで(書き込み中のI、II、III)は、昭和16年(1941年)12月6日午後8時30分から7日午前0時20分に送られていることがわかります。14分割目(書き込み中のIV)については、判読不能ですが、電送時間の記入枠内に「12月7日后4時」と書かれてはいます(ともに日本時間)。なお、この電報には「館長符号」の指定はありますが、「緊急」、「大至急」等の指定はされていません。
 資料12(九〇四号)は、駐米大使館において手交用の覚書を作成する際に、タイピストを使用しないように指示した電報で、「館長符号」の指定のみされています。
 資料13(九〇五号)は、ルーズヴェルト米大統領から昭和天皇に宛てて送られた親電についての照会電で、「大至急、館長符号」の指定がされています。
 資料14(九〇七号)は、覚書の手交時刻を「貴地時間七日午后一時」とすることを訓令した電報で、「大至急、館長符号」の指定がされています。
 資料15(九〇八号)は、東郷外務大臣から野村・来栖両大使、大使館員に対する慰労電です。「緊急」の指定がされています。
 資料16(九一一号)は、覚書の一部訂正を訓令した電報で、12月7日午後7時20分に発電され、「緊急、館長符号」の指定がされています。
3、「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)遅延事情に関する資料


資料17:B02032435000 2.日米開戦直前ノ経過ト若干ノ観察(2画像〜6画像)
「日米開戦ノ経過ト若干ノ観察(昭和二〇、一〇、)」
画像資料
資料18:B02032435000 2.日米開戦直前ノ経過ト若干ノ観察(7画像〜12画像)
「無題、日付不明」
画像資料

 資料17は、昭和20年(1945年)10月に日米開戦直前の経過をまとめたもので、覚書手交に関する記述があります。ここには、日米交渉打ち切りに関する対米通牒を決定し、12月7日午後1時に通告の手配をすることに定めたが、「技術上ノ手違ヒ」で「一時間以上遅レテ通告」されてしまい、「真珠湾ニ対スル強襲」が対米通牒に先行する結果になってしまったと記述されています。
 資料18は、交渉打ち切りの通告についてまとめられた文書で、「二、覚書通達遅延事情/ロ、対華府大使館受電状況」(4画像目)には、駐米大使館における「対米覚書」の処理過程についての記述があります。ここには、ワシントンの日本大使館に公電九〇一号(資料10)が届いたのは、現地時間12月6日午前中であり、最後通牒の本文である公電九〇二号(資料11)は同日正午頃より引き続き到着し、午後11時頃までには14分割された電報のうちの13分割目まではすべて解読を終えたと記述されています。そして、係員は最後の14分割目を待っていたが、翌日午前3時頃までに到着しなかったとあります。なお、ここには注記があり、7日午前7時頃までには、公電九〇二号がすべて配達されたようだと記述されています。続いて、電報到着後の経過ですが、7日朝に電報が到着した後、解読・浄書する作業で時間がかかり、野村大使がハル米国務長官に最後通牒を手交する時間が当初の指示よりも1時間遅れたのだとあります。ここにも注記があり、最後通牒の解読・浄書が遅くなった理由が挙げられています。これによれば、理由の一つは、訓令に従って素人の手によって文書をタイプしたことにあったとされています(12月6日に東郷外務大臣から野村・来栖両大使に送られた公電第九〇四号では、機密保持のため、タイピストを使わないようにとの指示がありました)。また、もう一つの理由として、14分割目の電報に「大至急」の指示が欠落していて、大使館員が最後通牒の本文だと気づかなかったという説が挙げられているとの記述があります。ただ、同じ注記者に述べるところによれば、この電報を打った電信技師が死亡してしまったため、この説を確かめることができません。

 本センターに存在する「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)関連資料は以上ですが、外務省外交史料館における戦後外交記録第12回公開分に、「昭和十六年十二月七日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」が含まれています。その詳細及びそれらの記録に基づく電文の駐米大使館到着日については、原口邦紘「史料紹介 昭和十六年十二月七日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」(『外交史料館報』8、1995、47〜63頁)をご参照下さい。
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