日米交渉 資料解説
昭和16年(1941年)11月21日
野村・来栖両大使、ハル米国務長官と会談、野村は「乙案」を手交
資料1:B02030722900 17 昭和16年11月21日(1画像〜5画像右)
「昭和十六年十一月二十一日野村大使発東郷外務大臣宛公電第一一四七号(極祕、館長符号)」
画像資料
 昭和16年(1941年)11月21日(米時間20日 12:00〜13:30)、野村・来栖両大使は、ハル米国務長官と会談、「乙案」を手交しました。
 資料1は、その会談内容の報告電報です。この会談において、両大使はハルに対し「乙案」を手交、来栖が全項目について説明をしました。これに対し、ハルは日中全面和平の努力を妨げる行為をしない、とある項目について難色を示しました。ハルは、日本の政策が明らかな平和政策とならない限り、援蒋打ち切りは困難であり、今日の事態に立ちいたったのは、日本による在中国アメリカ権益の侵害も原因である、と述べました。これに対し、来栖大使は、ルーズヴェルト米大統領が日中和平の仲介をする以上、援蒋行為の中止を日本から求めることは当然の措置である、と反論しました。しかし、ハルはルーズヴェルトの提案は、あくまで日本が平和的政策をとることを前提としたものであり、日本が武力拡大政策を唱えてきた以上、アメリカ国民は日本が平和的政策に立ち帰ったと考えることは困難である、と述べました。また、野村は「乙案」は、日米関係がとくに南西太平洋方面に関して緊迫している状況を緩和し、それによって交渉そのものをさらに進めるためのものである、と説明しました。しかし、これに対してもハルは、その趣旨は理解できるものの、先に述べたような問題点があり、大使もハル自身も日米両国国民のみならず、全人類にたいして重責を担っているものである、と沈痛な表情で語りました。そして、「乙案」については、「同情的」に検討する、と述べました。
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